村井啓哲 MURAI Keitetsu (Hironori) / 覚書 /2010-04-17

glumbert - Predator Cuddles Its Prey

「ことが起これば事実は想像を打ち消して、それが実際にあるとおりのものにしてくれる。だから苦しいうちにも慰められる。そうした状態におかれると、新たな心配からは完全に解放され、希望から生まれる不安もなくなって……
……みじめな、思いがけない出来事がついにわたしの胸からこのかすかな希望の光をさえ消し去って、この世におけるわたしの運命が永久に決定されていることを教えてくれることになった。それ以来、わたしはもうなにもかもあきらめ、おかげでふたたび心の平和を見出すことになったのである。」(ルソー『孤独な散歩者の夢想』より)

信じるとは、根拠なく受け入れることだから、確かめようのないことは信じようと信じまいと、根拠がないという点では同じといえる。聖典には、某が信じなかったので然々の結果を招いた、というパターンが頻出する。獣などは信じるということなく、ただ感知する。すると人間らしさというのはどういうものか。

面白いと思うのは、一般に人間らしさという概念が夢想や推論ではなく情と結びつけられていて、それが機械的でも動物的でもない何かであると強く信じられている点だ。

2008-07-31/2010-04-17

万物が私を見ていた。丘々は野の末に、胸から上だけ出し、見守っていた。樹々は様々な媚態を凝らして、私の視線を捕らえようとしていた。雨滴を荷なった草も、或いは私を迎えるように頭をもたげ、或いは向こうむきに倒れ伏して、顔だけ振り向いていた。
大岡昇平『野火』三〇 野の百合 第二段落

2008-06-03

「artはinfomationではないから、たくさんなくてもいい」
と、小杉武久に言われたのを思い出す。

2008-06-03


Broken Kilohertz (2008)

2008-05-05

我は傷口にして刃
生け贄にして刑使
ボードレール『悪の華』

2007-11-18

芳一の耳
平家の怨霊に差し出された冥界の窓

「眼を見ることはできる。耳を聞くことはできるか?」M.D.

「芸術は自然の模倣である」
知られざるものが模倣されることもないのは必然である
〈自然の模倣〉という課題の必要条件は作者の無意識だろうか

2007-10-13/11-18

一つの死の三つの局面
ノーマン・O・ブラウン『エロスとタナトス(死に抗う生)』

2007-09-05

"Present Tense" by Douglas Davis

現在形

2007-09-04

告知の草稿から:

……した。しかし現在、この窓は秘めやかに閉ざされつつあるようだ。テクノロジーの進展は人間を融合させるかに思われたが、距離の克服とは裏腹に、遠方と結ばれる友情の影で隣人は置き去りにされている。四季を通じて心地よい部屋は、夥しい犠牲を強いている。芸術はこのような事態をただ反映するものであるべきか。例えば凍えながら冬の星空を近しい人々と共に仰ぐ親密さの中で、我々は……

2007-09-04

意識と本質

2007-08-08

exegi monumentum aere perennius

青銅より永遠なる碑を我は打ち立てり 

Horatius, Carmina III.

2007-07-25

「ジョージ(マチューナス)はソーホーの生みの親だった。いま、ソーホーは商売画廊と気取ったカフェと服屋だらけの、浅はかなスノビズムの坩堝になってしまったけど、ジョージはそんなつもりじゃなかった。彼はただの汚い倉庫街に過ぎなかったソーホーを(反)芸術家の自治区に変えようとしたんだ。それで一軒のロフトを共同購入することから始めた。そこを徹底的に掃除したのが原因で喘息になってしまったり、金のことではマフィアに片目と方肺を潰されて……ジョージはソーホーの未来を片目で支払ったんだ。そしてその未来というのは、皆様よくご存知のとおり……もうあんな奴はどこにもいなくなってしまった」

去年の春、富山でベン・パターソンから聞いた話を、完全に忘れてしまう前に思い出しながら書く。しかし詳細はもうわからなくなっている。この日の痕跡として、靉嘔氏によって片目を乱暴に鉛筆で塗りつぶされたフルクサス・シンボルの虹色版画が僕の手元に残された。(この時ベンは靉嘔の求めに応じて、急病で倒れたエメット・ウィリアムズの代理として来日し、すべての予定をあんな終わらせたところだった。彼はロフトで孤独に死んだジョー・ジョーンズの第一発見者でもある。そしてエメットは今年の聖バレンタインデーに死んでしまった。靉嘔は東京とベニスで追悼のイべントを行った。それはまたナムジュン・パイク、エミリー・ハーベイ、岡部徳三の死に捧げるものでもあった。)

2007-07-23

若干の囚人において現われる内面化の傾向は、またの機会さえあれば、芸術や自然に関する極めて強烈な体験にもなっていった。その体験の強さは、われわれの環境とその全くすさまじい様子とを忘れさせ得ることもできたのである。アウシュヴィッツからバイエルンの支所に鉄道輸送をされる時、囚人運搬車の鉄格子の覗き窓から、丁度頂きが夕焼けに輝いているザルツブルグの山々を仰いでいるわれわれのうっとりと輝いている顔を誰かが見たとしたら、その人はそれが、いわばすでにその生涯を片づけられてしまっている人間の顔とは、決して信じ得なかったであろう。彼等は長い間、自然の美しさを見ることから引き離されていたのである。そしてまた収容所においても、労働の最中に一人二人の人間が、自分の傍らで苦役に服している仲間に、丁度彼の目に映った素晴らしい光景に注意させることもあった。たとえばバイエルンの森の中で(そこは軍需目的のための秘密の巨大な地下工場が造られることになっていた)、高い樹々の幹の間を、まるでデューラーの有名な水彩画のように、丁度沈み行く太陽の光りが射し込んでくる場合の如きである。あるいは一度などは、われわれが労働で死んだように疲れ、スープ匙を手に持ったままバラックの土間にすでに横たわっていた時、一人の仲間が飛び込んで来て、極度の疲労や寒さにも拘わらず日没の美しさを見逃させまいと、急いで外の点呼場まで来るようにと求めるのであった。

そしてわれわれはそれから外で、西方の暗く燃え上がる雲を眺め、また幻想的な形と青銅色から真紅の色までのこの世ならぬ色彩とを持った様々な変化をする雲を見た。そしてその下にそれと対照的に収容所の荒涼とした灰色の掘建て小屋と泥だらけの点呼場があり、その水溜りはまだ燃え上がる空が映っていた。感動の沈黙が数分続いた後に、誰かが他の人に「世界ってどうしてこう奇麗なんだろう」と尋ねる声が聞こえた。

V.E.フランクル/霜山徳彌訳『夜と霧_ドイツ強制収容所の体験記録』(みすず書房/1961)p126-127

2007-07-23

ヨーロッパの諸政府においては、貴族制の基礎は土地所有であり、君主制の基礎は公共の力であり、民主制の基礎は動産である。

これら三つの政治的動因の変転が、政府の変転であった。

封建制度が最大の力を持っていた時期には、土地財産以外の財産はなかった。騎士と聖職者の貴族階級が全てを支配し、民衆は奴隷状態におとしいれられ、君主は何の権力も保持していなかった。

技芸の復興は工業的、動産的な財産の復活をもたらした。土地財産が、本来、征服や占領の産物であるのにたいして、この財産は労働の成果である。

その頃ほとんど圧殺されていた民主制の原理は、以来、力を得、発展に向かうことを止めなかった。技芸、工業、商業が勤勉な民衆の階級を富ませ、大土地所有者を貧しくし、諸階級を富において接近させるにつれて、教育の進歩は習俗において諸階級を接近させ、始原的な平等の理念を、長い忘却の後に再びよみがえらせた。

ジャン・スタロバンスキ−『フランス革命と芸術』邦訳より「注と補説」におけるバルナーブ『フランス革命序説』引用の抜粋

2007-06-16

太子は……「あわれ、生き物は互いに殺し合う」とつぶやき……

仏教伝導教会発行「和英対照仏教聖典」第一部第一章第一節より抜粋

釈迦は転生せず入寂したと伝えられ、その悟りは無数の転生を繰り返した果ての終着点と捉えられる。それが方便であるにせよ、転生の概念は悟りという課題によって明瞭な方向性を与えられた。輪廻も解脱もそれ自体はヴェーダに説かれている概念であり、その構成を変えることで仏教は新たな視座を示した。解脱とは輪廻からの解脱であり、転生とは解脱に向かう過程である。ヒンドゥーは善行によって来世でのカーストが上昇すると説いた。反仏教。

解脱はまたコスモロジーからの解脱でもあるのだろうか?これまで共同体において、コスモロジー=統合的世界像の存在が、その全体から最小単位である個人に至るまで必須のものと考えて来たのだが、いま精密なコスモロジーを顕在化させる共同体はすでに何らかの病理を抱えているのではないかという疑念も抱いている。

ではコスモロジーなき共同体というものが--中断--

宮沢賢治の『手紙 四』

2007-05-07, 09

つくられる音楽と、聴き出される音楽がある。

聴き出される音楽。無数の現象が交錯する沈黙の空間から、急に涌いた雲のように、音楽が顕われる。小泉文夫ほどの耳男が、この音楽については何も触れていないようだ。何故か。

2004-06-07

ウィリアム・シェークスピアは『あらし_The Tempest』を書いている。
劇中、島を取り囲む海と大気は絶えず歌い、奏で、叫び、囁く。

2007-03-29, 04-03

Be not afeard; the isle is full of noises,
Sounds and sweet airs, that give delight and hurt not.
Sometimes a thousand twangling instruments
Will hum about mine ears, and sometime voices That,
if I then had waked after long sleep,
Will make me sleep again: and then, in dreaming,
The clouds methought would open and show riches
Ready to drop upon me that, when I waked,
I cried to dream again.

William Shakespeare "The Tempest", Act 3, Scene 2

その言葉も、川が合流に合流を重ねて海に流れ込むように、沈黙に還っていく。

2007-04-03

思考の歩みが以前のような強い記憶のあかりを失ったので、路面をひろく照らすことが出来なくなって来た。今はかろうじて、絶えず起伏の変わる足許だけが見える。いつでも未来は見えなかったが、何も見えなくなる前に、見て来たものや見えているものを手当り次第に書き留めておけば、後でビーズ玉のように使うことが出来るかもしれない。

2007-03-29

白鳥の歌


シャーロット/パイク

ヴィデオの中で電子的な極彩色を身にまとったシャーロット・モーマンが奏でるサン・サーンスの《白鳥》

神は死んだ(ニーチェ)→紙は死んだ(パイク)→ヴィデオの死(クボタ・シゲコ)。スクラッチ・ミュージックはオーディオの死か?

ランダム・アクセス
百科全書(ディドロ=ダランベール)
文化の死=アルファベットα-β(フェニキア=ポエニ/Phoenicia=Punic)
フランス国歌の一節:我等の英雄倒れなば大地は再び彼等を生まん
軍隊

永遠 α-ω(キリスト)

video_logy
videa_tion


videoの死を発明したのはクボタ・シゲコである、とパイクは言う
アスペクト比4:3の映像の中で、あらゆる再生速度でせわしなく進み戻るタクシー、人物、景色、音

2006-04-16/2007-03-21, 29

ロウソクを吹き消すがいい。もう夜が明けたのだ。

井筒俊彦『イスラーム文化』第三章“内面の道”に引用されたシーア派初代イマーム、アリーの言葉

2007-03-20

A Thanksgiving Prayer by William S. Burroughs
"To John Dillinger and hope he is still alive. Thanksgiving Day November 28 1986"


Thanks for the wild turkey and
the passenger pigeons, destined
to be shat out through wholesome
American guts.

Thanks for a continent to despoil
and poison.

Thanks for Indians to provide a
modicum of challenge and
danger.

Thanks for vast herds of bison to
kill and skin leaving the
carcasses to rot.

Thanks for bounties on wolves
and coyotes.

Thanks for the American dream,
To vulgarize and to falsify until
the bare lies shine through.

Thanks for the KKK.

For nigger-killin' lawmen,
feelin' their notches.

For decent church-goin' women,
with their mean, pinched, bitter,
evil faces.

Thanks for "Kill a Queer for
Christ" stickers.

Thanks for laboratory AIDS.

Thanks for Prohibition and the
war against drugs.

Thanks for a country where
nobody's allowed to mind the
own business.

Thanks for a nation of finks.

Yes, thanks for all the
memories-- all right let's see
your arms!

You always were a headache and
you always were a bore.

Thanks for the last and greatest
betrayal of the last and greatest
of human dreams.

2007-02-20

人間=homo=adam
大地=humus=adamah

2007-02-18

「群盲像を撫ず」という諺と反対の状況については
どのような喩えがあるのか。

2007-02-02

1
ある日突然、首を失った三人の男。

一人目は辺りをやみくもに探し回る。
二人目は首の代りを手当り次第に取り上げると、
それを載せては捨て続ける(手、足、乳房、皿、椅子、靴、等々)。
三人目は二人目の男のかりそめの首となって、いつのまにか捨てられていた。

2
世論という異端審問会

3

黙示録の獣=大衆という推察(ヴェイユ)

2007-01-10

火と塩 星と果物

2007-01-02

突然思い出された、混沌とは未知の秩序である、というような誰かの言葉。それとも、我々は未知の秩序を混沌と見る、というのが正しかったか。後者の方が妥当。

我々に理解可能な秩序は知覚しうる領域の中でさえ、いつも極めて僅かな部分に過ぎない。法則は常に混沌/秩序を超えた時空の全域に作用している。古代ギリシアの神々は、いともたやすく情や欲に動かされ、禍福をない交ぜにして人に与え、人間の不遜は絶えず罰せられる(「イリアス」を参照)。これが人間と法則との関係であり、秩序はただオッカムの倹約則(単純則)を例証する。

2007-01-02

世界はひとつの不思議です。昼もあれば夜もあり  月もあれば太陽もあり  星もあれば果物もあり  風に回る風車も  みんな世界にあるのです

ポール・グリモーとジャック・プレヴェールによるアニメ『王と鳥』から、「鳥」の小さな息子たちの唄

2006-08-16

「歴史とは闘争の歴史である」

街路樹:
度重なる剪定に抗って無数の結節を成す幹のかたち
その枝先に鋭利な葉を広げて混沌と秩序を代謝する
地を這って支脈を広げたことの記憶が塵芥にまみれ
枯れかけて虫に喰われながらなお宙に揺らいでいる

2006-06-23

私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』より蠍の最後の言葉から

2006-06-22

1

中世西洋の修道院であれほど多様な酒類が造り出されたのはなぜか。

2

MB:隠喩と象徴の天蓋に頭上を飾られた君主に他ならぬ彼が無用な説明を始めてしまった為に、その王宮と式服は消え去り、いまや彼は裸の遺伝子工学技術者として多重のキメラを創造する成就し難い実験の中に唯一人幽閉された孤独な英雄である。

3

単調な言論の手段としての芸術
聖書を題材とするハリウッド映画『十戒』など
マルチン・ルター

4

故郷を甘美に思う者はまだ嘴の黄色い未熟者である。
あらゆる場所を故郷と感じられる者は、
すでにかなりの力をたくわえた者である。
だが、全世界を異郷と思う者こそ、完璧な人間である。

池澤夏樹がサイードの引用するアウエルバッハの中に見つけた聖ヴィクトルのユーゴー

2006-03-8,26/05-14

東京都現代美術館での展示記録

2006-04-19

1

白鳥の歌

2

糸の切れた首飾りのビーズ玉すべてに内在する
さまざまな首飾りの可能性をそのまま保つことの良さ

2006-04-16

沈黙

真空に向かってすべてがなだれ込む

排水溝

雷鳴

マイスター・エックハルト

2006-03-31

出現・変化・消滅

2006-03-30

刺激と反応

機械

動物

2006-01-09, 02-11

後期旧石器時代にユーラシアの北で暮らした人々は、粘土や象牙による極めて写 実的な彫塑の類を遺している。研究者はその優れた技巧に驚きを隠さない。しかしこの傾向はおよそ氷河期の終わりと共に消え去り、記号的図像群と交代する。獣骨に刻まれた原初の暦は新石器時代初期のもの。

共同体の神聖なる表意文字は侵略を受けてアルファベットと化す。カドモスが撒いた龍の歯から萌え出た兵士(スパルトイ)の殺し合い。

レコン・キスタの終わり近くに、東方文献の膨大な流入に翻弄された神学の舞台の袖で図学の研究が進み、透視図法もそこから生まれ画法としてのリリエヴォと結合する。

2005-7-28

ある誰かについて学ぶということは、その誰かが何をどのように関連づけるかということ、つまりその思考=物事の関連付けのパターンを学ぶことである。これはその誰かの容貌あるいは癖や嗜好など、いわゆる特徴を調べ上げることとはまったく別 の次元に属する。特徴の調査は差異に焦点を絞るが、思考の調査においては…

?憑依

?ミハイル・バフチンによるドフトエフスキー文学への注釈

?自然主義小説家の流儀(フローベールの膨大な覚書)

ウィトゲンシュタインは「語り得ぬことについては沈黙するしかない」と論考の最後に書いた。水の世界に生きる魚。(言語ゲームはその水面 が示す様々な景色に関する様々な記述である。それは有限であり、かつ永遠に変転する(これはフラーによる宇宙の定義))また彼は、同じ問題について少なくとも一度は考えたことのある人物だけが、自分の著作を理解するであろうと、同じ著作の冒頭に書いた。

陸地と海底。水位の変化につれて、ふたつの島がひとつになり、あるいは消えてしまうかと思えば、忽然と無数の島々が現れる。

2005-7-10

ロボットの製作技術がどこまで進んでも、決して人形の段階を超えることはない。それは徹頭徹尾、製作者の願望、要求、見識、等々の表現に過ぎない。一方、初期サイバネティクスの研究者達は彼らの命題群を検証するために機械を利用した。命題が無矛盾であれば機械はつつがなく作動する。その動作に異常があれば、命題それ自体が再検討される。 つまりそれは、そのような思考=作業による、演繹的かつ弁証法的な生命の考察であった。エアコンやミサイル、航空機に利用された自動制御技術は、そのような考察の残滓に過ぎない。またラッセルが探究し、ヴィトゲンシュタインが精査した論理哲学は、ノイマン型と呼ばれるコンピュータによって完全にパロディ化されてしまった。真と偽の問題は、単なる素子の明滅にまで矮小化されてしまった。あの沈黙の向こうにある「何ものか」については、もはや顧みられることもない。

ほぼひと月前、若い友人がフォン・ユクスキュルについて語った(彼はある学究機関で人工生命を研究している)。ユクスキュルは「環境世界」という概念を提唱した(という)。 「ある種のウニは,暗くなるとトゲを波立たせて反応する.この反応はいつでも,雲やボートの陰がさしても,あるいは本当に敵の魚が近づいても起こる.つまり,ウニの周囲にはいろいろなものがたくさんあるが,真に環境となるのは光が暗くなるという一つの特性だけである.」(ベルタランフィによるユクスキュルの再引用)

「ウニは光が暗くなるとトゲを波立たせて反応する」。これはひとつの観察報告であり、その限りにおいて認められる。しかし 「光が暗くなるとトゲを波立たせて反応するものはウニである」とするならば、ここに傲慢と堕落の扉がある。

中東では、お菓子やおもちゃのかたちをした色鮮やかな地雷が、無数の子供達の手足を奪った。フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?(映画『ブレードランナー』原作)』に登場するレプリカント達もまた、「知能」と「記憶」を巡って激しい虐待を受けた一群の子供達といえる。

2005-03-17, 20

レーモン・ルーセル『アフリカの印象』の二部構成は決して無駄なものではない。比例中項。

例えばY=2X-1(ただしXは正の自然数)から得られる数列(1, 2, 4, 8, 16, 32, 64, 128, 256, ......)に含まれる数は、1を除外すればどれもがその前後の数の比例中項となる(1:2=2:4=4:8=8:16......)。

2004-07-23

ergon

energeia

energy = en-er-gy

entelecheia
entelechie

entropy

2004-07-18

A dream you dream alone is just a dream
A dream you dream together is reality

Yoko Ono = John Lennon

ひとり夢見る夢はただの夢
みんなで夢見る夢は現実

ジョン=ヨーコ

2004-06-15

山の頂きは氷と雪の衣をまとって、まるで花火のようにきらめき、平野はあざやかな緑一色につつまれて笑みこぼれるようだった。遠いかなたは、濃い青と淡い青との微妙なぼかしでかざられ、濃紺の海には、大船隊の色とりどりの小旗が無数にひるがえっていた。目をあげると、難破船がかなたに見え、手前では農夫たちのひなびた楽しげな食事が繰り広げられていた。右に目を転じると、かなたにおそろしくきれいな火山の噴火や、地震の惨状が見かけられ、前景では陰を宿す木の下で、恋人どうしが甘い愛撫をつづけていた。また左手の後方では、おそろしい戦闘が展開され、その手前ではこっけいな仮面 劇が演じられているのだった。ふりかえってみると、前景には少女の遺骸をのせた棺の台があり、悲しみにくれた恋人が台の足にすがりつき、その傍らで両親が泣きくれていた。かなたにやさしい母親が子供を胸に抱いているのが見え、天使がその足もとに坐ったり、頭上の枝から見下ろしたりしていた。…

ノヴァーリス/青山隆夫訳『青い花』(岩波文庫)第一部第九章 p212

2004-06-15

ヴィトゲンシュタインのメモから

どんな芸術家でも、ほかの人たちからの影響を受けており、その影響の跡は、かれの作品のなかにみることができる。だが重要なのは、かれの個性だけなのだ。ほかの人からうけついだものは、卵の殻でしかない。卵の殻がのこっているということを、わたしたちは、寛容にながめておきたい。しかし卵の殻は、わたしたちの精神の栄養とはならないだろう。

Circa 1932-1934

p66

…神は、神の子の生涯を、四人の人間に報告させる。報告は、それぞれちがっていて、おたがいに矛盾している。だが、つぎのようにはいえないだろうか。その報告は、ごくありふれた歴史記述にみられる確からしさしかそなえていないのだが、この点が重要なのである。というのもそれは、歴史上の確からしさが、本質的なもの、決定的なものとみなされないための配慮なのだ。それは文字が分不相応な信仰をうけないための配慮であり、精神がそれゆえ相応の処遇をうけるための配慮なのである。…

1937

p87

ヴィトゲンシュタイン/岡沢静也訳『版哲学的断章』(青土社/1988)より ,

2004-06-16

ラジオと鏡(ジャン・コクトーの映画『オルフェ』)

2004-06-15

詩は非情なものと信じているので、「詩情」という言葉に出会うと困惑してしまう。「詩情溢れる」というような言い回しの中で捉えられている詩とはどのようなものなのか。

2004-06-14

即興演奏家としての技術とは多分に 楽器にもともとそなわっている資源を活用すること を意味する。(デレク・ベイリー)

2004-06-03

ベン・パターソンから聞いた(うろ覚えの)話。その昔、彼とエメット・ウィリアムズが演奏旅行中に泊まったホテルで、彼らは新婚夫婦と同じ朝食のテーブルについた。軽い会話が進む中で、夫婦は一緒に美術館へ行こうと二人を誘った。エメット・ウィリアムズはこう答えたという。"Madam, I am artist. I am not art lover."

この話を聞いた次の日、ベンに質問してみた。"George Maciunas is artist or art lover?"
彼は"art lover."と即答し、少し考えてから訂正した。"No, he was real friend of the artists."

オノ・ヨーコと一緒に来日したJohn Hendricksは、東京都現代美術館における彼の講演会では特に話しもせず、しかも唐突にいくつかのパフォーマンス作品を実演してみせたというウワサを聞いた(これはデマだったらしい)。その彼が去年か一昨年、ブラジルで組織したフルクサスの展覧会だったか、あるいはそのカタログのことだったのかも知れないが、内容は"FLUXUS"と"NOT FLUXUS"というような二つの部分に別れていて、ベンはその両方に分類されていたそうだ。そういえば彼はカエルが好きらしいのだが

2004-06-02

精進湖にてNam Jun Paik"One for Violin Solo"を演奏する(photo: ITO Shinobu)

2004-05-29

乱れずして荒れる(マース・カニングハムのダンスの題名)

2004-05-16

ワニス [varnish]:透明な被膜を形成する合成重合体又は化学的に変性させた天然重合体をもととしたもので水以外の媒体に分解、溶解したもの。ニス。仮漆。

(ヴェルニサージュ)

2004-05-04

遠方の鳥の声

すでに見知ったものの名前で呼ばれる雲の群れ

オートマティズム

解釈の沈黙

Communication, baka-rashii. (J.C.)

交差点で行き交う無数の自転車のブレーキの音

認識、判断、操作(行動、あるいは環境の調整)

餌を乞う猫に菓子の屑

晩年のウィリアム・バロウズが見た夢
瓦礫の中で「僕のこと、いらないの?」と問いつめる突然変異の子供
(Cat inside/内なる猫)

等々

2004-05-04/05-16

瀧口修造のことが気にかかる。

瀧口の画帖の絵画にも書にも届かない、
熟達の可能性を最初から切り捨てたような、
(なんとしても稚拙と見るべき) 事務用インクの線や滲み。
どこにもいこうとしないし、ここにもいようとしない。
純化されたまよいのかたちなのか。

2004-04-20

「…単調、いや無限の…」(ボルヘス)

「今日の空は古い」などと言い出す人はどこにもいない。
オノ・ヨーコの作品もそのように古くならず、 浅薄でもなく、深遠にもならず、
媚びもせず、権威もなく、いつも新しいまま、
今日も仕方なく美術館の中で強い光(beam)を放っている。

2004-04-16

ノーマン・オリバー・ブラウンが2002年10月2日に89歳で死んだことをいま知った。 痛ましいことにアルツハイマー症を患っていたという。

彼の言葉

精神と肉体、言葉と行い、発話と沈黙のアンチノミーは克服される。すべては隠喩にすぎない。詩だけが存在する。

そして

Freedom is poetry, taking liberties with words, breaking the rules of normal speech, violating common sense.

(試訳:自由とは詩だ、言葉に解放をもたらし、一般話法の規則を打ち破り、常識に暴虐をふるう。)

2004-04-14

テレビのコマーシャルから聞き取った一節を手がかりに

Bows and flows of angels hair
And ice cream castle in the air
And feather canyons everywhere
I've looked at clouds that way

But now they only block the sun
They rain and snow on everyone
So many things I would have done
But clouds got in my way

Joni Mitchell "Both side now"の冒頭部分

2004-03-26

例えばY=2X-1(ただしXは正の自然数)から得られる数列(1, 2, 4, 8, 16, 32, 64, 128, 256, ......)に含まれる数は、1を除外すればどれもがその前後の数の比例中項となる(1:2=2:4=4:8=8:16......)。

2004-03-10,11

A B C D
 

 

 

 

AA AB AC AD BB
BC BD CC CD DD
 
AAA AAB AAC AAD ABB
ABC ABD ACC ACD ADD
BBB BBC BBD BCC BCD
BDD CCC CCD CDD DDD
 

AAAA AAAB AAAC AAAD AABB
AABC AABD AACC AACD AADD
ABBB ABBC ABBD ABCC ABCD
ABDD ACCC ACCD ACDD ADDD
BBBB BBBC BBBD BBCC BBCD
BBDD BCCC BCCD BCDD BDDD
CCCC CCCD CCDD CDDD DDDD

2004-03-09

ジョルジュ・メリエスによる様々な映像のトリック
ジガ・ヴェルトフの『キノ・プラウダ』に挿入される数表のアニメーション
ハリウッド映画『十戒』でチャールトン・ヘストン演じるモーゼが神から石板を授かる場面
パゾリーニの『ソドムの市』における糞便の晩餐会
等々

2004-03-09

1=P
2=L
3=F
4=T1
5
6=O1
7
8
9
10=T2
11
12=C1
13=VE1
14
15
16
17
18
19=O2
20=T3
21
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100

2004-03-09

子供らを殺されてなお食べることをおもう神話の中の女は誰だったか。(ヴェイユが指摘する「人間の悲惨」)

2004-03-03

ニオベ Niobe

2007-01-02

火と塩は、どちらも浄めるものに数えられる。戦火に焼け落ちたペルセポリス、さらに塩を撒かれて不毛の地と成り果てたカルタゴ。

2004-02-18,29/03-02

「あらゆる動物が腹這いのまま生きる中で、人間は生まれてからすぐに天を仰ぐ」というようなことを書いたのはワルター・F・オットーだと思っていたのだが、以前にその和訳書からメモに書き移していた部分は以下のものだった。

……こうした本質的根底を示しているのが、人間に特有の直立ということであって、それについては古代の哲学、とりわけてもストア派の哲学が注意を喚起し、そこに重要な思想を結びつけたのであった。既にその体型においてそれが典型化されているのは、子供が仰向けの姿勢をとることによってであった。……

ワルター・F・オットー/西沢竜生訳『ミューズ?舞踏と神話』(論創社)p17

「ストア派の哲学」については何も知らない。どこで読んだのか?

2004-02-06,29

ただそこにある石と砂と土を(素材ではなく)課題として何ができるだろうか。

2004-02-09,10,29

バルトークと同じルーマニア生まれの宗教学者ミルチャ・エリアーデ(1907〜86)は、論文をフランス語や英語のような国際語で書き、詩と小説を母国語で書いた。前者は学問対象の記述に徹しているが、後者はまぎれもなくひとつの成就を目指している。

2004-02-06

雲は養いの雨をもたらすと共に天体からの光を遮り我々の眼を塞ぐ。

2004-01-31

想像力の表現形式からすれば、鳥はわれわれ以上に高次なわけではない。しかし鳥の飛ぶ能力はより高次の表現形式を象徴しており、人間存在のより高級な形式として視覚化されるものにしばしば翼が割り当てられる。このシンボリズムに対応する自然のイメージは、植物の苗床でも哺乳類の授乳する母でもなく、卵である。これは最古の時代から自然的宇宙の象徴として使われてきた。……ブレイクにおいて碧穹は世界の外殻であり、自然的宇宙の無限定な周壁であり、これを突き抜けて精神は翼を獲得し、現実に向けて上昇する。未熟者の目から見れば、卵は幾何学的ないしであるように見える。しかし、卵の内部で想像力をたらかせてみれば、卵ははるかに壊れやすい何かだということが分かる。同じことがニュートン的宇宙についても、すなわち、神的人間性の墓に向かって転がっていく岩についてもあてはまる。

Frye, FearfulSymmetry, 347-348

N・O・ブラウン/宮武昭・佐々木俊三訳『ラヴズ・ボディ』(みすず書房/1995)p62-63

2004-01-30

様々な装置を組み合わせて、極小のものを極限まで増幅したり、そこから思いもよらない結果 を導き出したいという僕の望みは、ボタンをひとつ押せば世界が破滅するとマスメディアから絶えず脅されて育ったことに、もしかすると結び付くのだろうか。

2004-01-30

アニー・ディラードに引用されたプリニウス

自然は、人間を除くすべてに、それぞれの種に応じて自らを覆うために充分なものを与えた。例をあげるなら、貝殻、豆のさや、硬い獣皮、棘、粗毛、剛毛、頭髪、羽毛、うろこ、そして羊の毛だ。自然は、木の幹や草の茎に樹皮と外皮を与え、そのうえ、ときには同じものにふたつを与えることで、暑さと寒さの両方から守ってやる。人間だけが哀れにも、むきだしの地上に誕生したその日に素裸で横たえられる。この世に産み落とされたその瞬間から、ただちに泣き叫ぶのである。

アニー・ディラード/金坂留美子他訳『ティンカークリークのほとり』 (めるくまーる/1991)p150-151

2004-01-29

罪を犯して逃げる男に追っ手が迫り、彼は古井戸に絡んだ藤蔓をつたってその中に降りて行ったが、底には毒蛇がいたので仕方なく宙づりになっているうちに手は痛んでくるし、白黒二匹の鼠が現れて蔓を齧り始める。蔓が切れれば蛇の餌食。その時ふと頭を上げて見ると、傍らの蜂の巣から蜜の雫が口中に滴り落ち、彼はその甘さに陶然となる。

第二部第四章第三節

刄に塗られた蜜を舐める子供

第三部第一章第一節

ある人が蜜を煮ていたところへ、突然親友が訪ねて来た。その人は友に蜜を振る舞おうとして、蜜の鍋を火にかけたまま扇いで冷やそうとした。

第三部第一章第三節

(仏教伝導教会発行「和英対照仏教聖典」より抜粋/要約)

2004-01-28

匙は味を知らない

だいぶ前から、この言葉の出所を探していたのだが、5年前に京都のホテルから盗み出した(「この聖典はここの備品です」と見返しに明記してある)財団法人仏教伝導教会発行「和英対照仏教聖典」に見つけた。

A spoon cannot taste of the food it carries.

匙はそれが運ぶ糧を味わえない。

第三部第二章第四節

2003-6-10/2004-01-28

6つの点すべてを相互に結ぶ線の総数は(62-6)/2=15本であり、その線の組み合わせの総数は線がない状態を含めて215=32,768通りに及ぶ。さらに線の太さが10段階ある場合、組み合わせの総数はいくつになるか。

答え
1+15*10+105*102+455*103+1365*104+3003*105
+5005*106+6435*107+6435*108+5005*109+3003*1010
+1365*1011*+455*1012+105*1013+15*1014+1015通り

2004-01-18,26,27

ファーブルは昆虫を機械に喩えたが、本能や生理と同様に、思想もまた人間を機械にする。機械とは固定された(無矛盾な)反応群の組織体である。思考それ自体は反機械的と思われる(非機械的なのではなく)。ヨゼフ・ボイスは流れる蜜に思考のかたちを見た。

ギリシャ語において「機械」と「計略」は共通の語根を持つ。--中断--

2004-01-18

匙から柄を切り離す。それぞれを別の用途に役立てる。もう匙はない。

2004-01-08

「解放奴隷」というのは実に不思議な言葉だ。

2004-01-07

人間が観念の動物であるならば、まるで模型の部品のような人がいてもおかしくはない。

2004-01-06

未知の言語を未知のまま使う方法を探そう。

2004-01-03

雲のかたちから見知ったものを思い浮かべる。あるいは雲の中から見知ったかたちを探し出す。

2004-01-02

世の中には活け造りや踊り食いという贅沢なものもあるが、獣の肉を食べるには、まず追い求めて殺さなければならない。しかし肉屋で買うという手もあり、むしろこちらの方が一般的である。すでに肉屋を組み込んだ社会に生まれ育った自分にとって、食うために殺すというのは後から得た知識に過ぎず、生きたまま食べるのが単なる贅沢に過ぎないのであれば、殺すという行為は、ただ殺すために殺すということでしかなくなってしまう。自前の歯が悪くなるのも道理である。歯を欠いた獣は生き延びられないというが、歯の悪い我々を養う社会の歯はますます強く鋭くならざるを得ず、自らの顎を裂き貫いてしまうほどの脅威にまで達するのを避けられないのではないだろうか。

2003-12-28

「人には掴む手と離す手がある」とジャン・コクトーは指摘した。

「私は吸気(inspiration)ではなく呼気(perspiration)で書く」というのも彼の言葉だった。

2003-07-19/12-27

泳がないという理由で蝶を批難するのは愚かである。しかし今日も無数の暴君の手によって、やはり無数の蝶が水責めを受けている。どの蝶も無言のまま溺れていく。話す口がないからだ。ただ水面に燐粉が拡がっていくだけ。これがブラウン運動の発見を助ける。

ブラウン運動:気体または液体中に浮遊する微粒子が示す不規則な運動。微粒子に対して熱運動をする気体または液体の分子が不規則に衝突する結果起こる。

2003-12-22

果たして「」とは、パスポートや予防接種や切符や空港や風景写 真や派手な絵葉書や珍しい土産物……等々のことだろうか。写真家の森山大道は15年ほど前に、彼の住処の周辺をコンパクト・カメラで撮って雑誌に乗せた。題は「ほんの五分の旅」だったと思う。ニューヨークやカサブランカやパリやマラケシュの時には使わなかった「旅」という言葉を、彼は家から徒歩で五分近辺の光景群(あるいは写 真群)に対して使ってみせた。

以前にくらべると今の旅はあらゆる点で安上がりだ。

2003-12-21

ほとんど束に見えないほどゆるく束ねるには、決して解けないように(うまく)束ねるのとは逆向きの熟練を要する。

2003-12-20

申命記14章21節:子山羊をその母の乳で煮てはならない

信者はこれを文字どおりに守るという。
黙示録の終末もまた、およそ文字どおりに待ち望まれ、あるいは恐れられた。

2003-12-18, 19

異なる映画の中で彷徨う盲のオイディプスを演じた二人の俳優、フランコ・チッティ(パゾリーニの『オイディプス王』、あるいは『アポロンの地獄』)とジャン・マレイ(ジャン・コクトーの『オルフェの遺言』)は、どちらも街のチンピラであったという過去を持つ。

2003-12-18

首尾よく年金生活者の頭蓋骨から抜け出した脳が、知られざる故郷を目指して旅するという物語を読んだ。大変気の毒なことに、彼は移動することで自らをすり減らし、手がかりを掴みかけたところで自分の目的を忘れてしまう。最後に「私はどこから来て、どこへ行くのか」と自問しつつ、世界の不可解な美を讃えながら、一匙のアイスクリームほどの大きさで死んでいく場面 は涙を誘う。

2003-12-03

八月廿九日附お手紙ありがたく拝誦いたしました。あなたはいよいよご元気なやうで実に何よりです。私もお蔭で大分癒っては居りますが、どうも今度は前とちがってラッセル音容易に除こらず、咳がはじまると仕事も何も手につかずまる二時間も続いたり、或は夜中胸がぴうぴう鳴って眠られなかったり、仲々もう全い健康は得られさうもありません。けれども咳のないときはとにかく人並に机に座って切れ切れながら七八時間は何かしてゐられるやうなりました。 あなたがいろいろ想ひ出して書かれたやうなことは最早二度と出来さうもありませんがそれに代ることはきっとやる積りで毎日やっきとなって居ります。しかも心持ばかり焦ってつまづいてばかりゐるやうな訳です。私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病、「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します。僅かばかりの才能とか、器量とか、身分とか財産とかいふものが何かじぶんのからだについたものででもあるかと思ひ、じぶんの仕事を卑しみ、同輩を嘲り、いまにどこからかじぶんを所謂社会の高みへ引き上げに来るものがあるやうに思ひ、空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味ふこともせず、幾年かゞ空しく過ぎて漸く自分の築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては、たゞもう人を怒り世間を憤り従って師友を失ひ憂悶病を得るといったやうな順序です。あなたは賢いしかういふ過りはなさらないでせうが、しかし何といっても時代が時代ですから充分にご戒心下さい。風のなかを自由にあるけるとか、はっきりした声で何時間でも話ができるとか、自分の兄弟のために何円かを手伝へるとかいふやうなことはできないものから見れば神の業にも均しいものです。そんなことはもう人間の当然の権利だなどといふやうな考では、本気に観察した世界の実際と余り遠いものです。どうか今のご生活を大切にお護り下さい。上のそらでなしに、しっかり落ちついて、一時の感激や興奮を避け、楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないものは苦しんで生きて行きませう。いろいろ生意気なことを書きました。 病苦に免じて赦して下さい。それでも今年は心配したやうでなしに作もよくて実にお互心強いではありませんか。また書きます。

宮沢賢治最後の手紙。かつての教え子柳原昌悦にあてたもの

2003-12-01

満月はみごとな円形の輪郭を夜空にあらわすが、揺れ動く水面に映るそのかたちは絶えず乱れ、歪んで定まらない。

星々(あなたの眠りを見張る千の目)の瞬きは揺らめく大気の屈折によってもたらされる。

2001-11-08/2003-11-28

きずのない鍋で湯を湧かすと、沸点を超えても温度が上昇するばかりで沸騰しない。
そこに塩や何かを落とすと一瞬にして沸き上がる。
不可視の小さな特異点がそのきっかけになることもある。
これを突沸と呼ぶ。

2003-11-28

頭痛を抑えるために薬を飲むと胃が荒れて痛むのならば、どちらの痛みを受け入れるべきか。

2003-11-28

ケージの「あるがままの音」は「しつけられた音」や「おしきせの音」や「隷従する音」などとの対比によって規定される。
ところで木や石はそんな音の違いを聞き分けるだろうか? あり得ない。
いかなる音も、ただ「しみ入る」だけだ。ということはつまり

2003-11-20, 28

たとえば《星の息子たち》とか《梨の形をした3つの小品》、あるいは《馬の装具で》とか《サラバンド》といった作品をとりあげてみるといい。これらの作品をつくりあげるときにいかなる音楽的アイディアも介入してはいないということに、気づかれるにちがいない。それらを支配しているのは科学的な思考なのである。
事実、
私は聴くということよりは、音を測定することのほうに、より大きな悦びを感じる。私は音響計測器[Phonometrography]を手にして、正確に、愉しく仕事をすすめる。
私がまだ重さを計量しなかったり、長さを測らなかったりしたものはといえば、べートーヴェンの全作品、ヴェルディの全作品などである。それはまことに奇妙なシロモノだ。

……

音のクリーニングということをご存知だろうか?
音は全く汚いものだ。その不潔な音をきわめて綿密に選りわけ、ふさわしいものとして音を紡ぐこと。それにはまた視力のよいことが要求される。

……

こうして未来はPhilophonyに属するものになるだろう。

エリックサティ/秋山邦晴・岩佐鉄男編訳『卵のように軽やかに』(筑摩叢書)収録『私は何者か』より抜粋

2003-11-11

ニシジマアツシから受け取る

1.

具体美術は物質を変貌しない。具体美術は物質を偽らない。
具体美術に於いては人間精神と物質とが対立したまま、握手している。
物質は精神に同化しない。精神は物質を従属させない。
物質は物質のままでその特質を露呈したときもの語りを始め、絶叫さえする。
物質を生かし切ることは精神を生かす方法だ。
精神を高めることは物質を高き精神の場に導き入れることだ。
芸術は創造の場ではあるけれど、未だかって精神は物質を創造したためしはない。
精神は精神を創造したにすぎない。

『具体美術宣言』 より抜粋

2.

存在には理由はない

存在には理由はない。
収入と支出は無関係である。
存在には理由はない。
存在には次元の異なるものが入りまじっている。
存在には理由はない。
言葉は物の表面をなでまわすに過ぎない。
存在には理由はない。
人が生き、物がそこに在ることは奇怪である。
存在には理由はない。
絵画はいろいろな次元に存在する。
存在には理由はない。
傑作は理由を問うことを断念させ、鮮やかに存在する。
存在には理由はない。
重要なことは理由がないことである。

村上三郎

2003-11-07

皆殺しの後に栄える中流の屍体社会。ありとあらゆる「門番の趣味」で飾り立てられた住処のために収入の半分が消える。

パゾリーニの映画『アッカットーネ』の世界はどこにもない、と断言できるだろうか。オルテガの『スポーツとしての政治の起源』によれば、--中断--

2003-11-04, 07

引き裂かれたものだけがひとつになれる (誰の言葉だったか?)

2003-10-12

W.B.イェイツの"Crazy Jane"

2003-11-04

ある人が"RIO DE JANEIRO"は「一月の川」だと教えてくれた。 調べてみると確かにJANEIROはJANUARYであり、いずれもJANUSに由来する。 JANUS=ヤヌスは正反対の方向に向けられた二つの顔を持つ古代ローマの門と通路の神であり、出会いと別れ、始まりと終わりの神でもある。 一年の始まりにおいて、ヤヌスの顔は一方で未来を、他方で過去を凝視する。コクトーの「掴む手」と「離す手」を連想する。バックミンスター・フラーの解釈によれば、 ヤヌスの双頭はミノアの双斧Labrysと共に、果てなく回帰する世界の円還性をあらわすものであるという。 Labyrinthは「迷宮」と訳されるが、本来はLabrysの置かれる「双斧の宮殿」を意味した。ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』は川の流れで始まり、Theで断ち切れたように終わってまた始まりに戻る。即ち

A way a lone a last a loved a long the / riverrun, past Eve and Adam's, from swerve of shore to bend to bay, ......

2003-10-10

DIARIO

Adulto? Mai - mai, come l'esistenza
che non matura - resta sempre acerba,
di splendido giorno in splendido giorno -
io non posso che restare fedele
alla stupenda monotonia del mistero.
Ecco perch e`, nella felicit a`,
non mi sono abbandonato - ecco
perche` nell'ansia delle mie colpe
non ho mai toccato un rimorso vero.
Pari, sempre pari con l'inespresso,
all'origine di quello che io sono.

Pier Paolo Pasolini 1950

高橋悠治の「表しえぬ ものと、ひたすら見合ったままで」(1997)に使われたパゾリーニの言葉

2003-09-08

無意識において、大脳は性器である。「大脳」(cerebral)という語は、穀物の女神、成長と肥沃の女神ケレス(ceres)と同じ語根に由来し、「成長する」のcrescoや「創造する」のcreoとも語根は同じである。言語考古学者オニアンズは失われた意味の世界を、埋没したもろもろの意味を発掘し、身体の先史的イメージを掘りあてた。それによると、頭と性器は脊柱を経由して往来する。脳の白灰質、脊髄、そして精液はすべて一つの同一の実体であり、性器が注ぎ口で頭が貯蔵庫になっている。魂をつくる実体は精液をつくる実体である。精神とは頭の中の性器のことである。そうなるとわれわれはすべて、花のように頭の中に種を宿していることになる。花のようにというよりはむしろ、蜂や蟻のようにと言うべきであろう。「王と女王は、彼らの寝室の真っ暗闇の奥深くに潜み、精神的なものと性的なものという二つの非常に異なった機能をみずから担っている。宮殿の寝室は高等動物の頭蓋骨の類比物である。女王の身体の実体ですら、哺乳動物の脳を思い起こさせる。

N・O・ブラウン/宮武昭・佐々木俊三訳『ラヴズ・ボディ』(みすず書房/1995)p195-196

2003-09-07

apparation (ghosts)

心霊写真の考察と応用

2003-08-20

poem、poema、poiesis、poiein, これらの語根はすべて同じであると説明されたが、疑わしい。

2003-08-09

問いと答えの例:

呼び鈴もしくはノックの後で

「どちら様ですか?」(拡散)
「××です」 (収束)

2003-06-14/07-19

身体は器官の寄せ集めではない。肉屋の店先に並んだものから一頭の生きた牛を組み立てることは不可能だ。器官は切り離すことで生じる。

「インターメディアとは、分かっていたことが再び分からなくなることだ」と小杉武久は言った。

2003-07-16, 19

ICCで『SOUNDING SPACE』展を見てからだいぶ経つ(2003年7月10日)。

『SOUNDING SPACE』という言葉にはマーシャル・マクルーハンが見続けた夢の響きがある。それは個の垣根を超えて鳴り響く共存と相互浸透の空間である。何故そのような展示構成にしなかったのか。--中断--

2003-07-10,11

パゾリーニの映画『オイディプス王(邦題:アポロンの地獄)』では、スフィンクスが問う例の謎は削り落とされていた(一つの声を持ちながら、四足から二足を経て三足になるものは何か?)。泥の仮面を被った弱々しいスフィンクスは、いとも容易くオイディプスに殺されるが一言を遺す。それはたしか「人間の心の奥にこそ真の闇があるということがわからないのか?」というものだったように記憶している。映画の中のオイディプスはそれをまったく聞いていない。(“オイディプス”は“腫れた足”を意味する。)

オイディプス役のフランコ・チッティは時折少年の顔を覗かせる労務者風の青年。ニネット・ダボリ(パゾリーニ映画の顔)はまだあどけないところを残す丸顔の少年で、どこか哀れな初々しさを放っている。パゾリーニ自身はテーバイ王となったオイディプスに直訴する市民の代表として出演する。だれもが小麦色の肌を陽に曝す中で、シルヴァーナ・マンガーノだけが女王蟻の腹のように白く、月のように蒼い。彼女は前テーバイ王ライオースの妻にしてオイディプスの実母イオカステーを演じた。

古代の都市テーバイをひらいたのはカドモスとされる。彼はヘルメスの龍を殺し、その歯を抜き取って他所の畑に撒くと兵士が生え出て互いに殺しあい、最後に残った五人がカドモスに仕えてテーバイをひらき、王となる。彼はまたギリシアにフェニキアのアルファベットをもたらしたと伝えられる。妻の名はハルモニア。この夫と妻は度重なる身内の不幸(龍の呪い)の果てに、つがいの蛇となって姿を消す。ヘルメスは往来の神である。

2003-07-08

思春期の始め、新宿駅山手線外回りのホームで、手を握ったり開いたりしていたら、突然、手と心の間に裂け目が生じた(あまり適切な表現ではないが他に思い付かない)。その時の感覚を何度も呼び醒しながら、およそ30年が過ぎた。

ある時期まで、僕はこれを「実存の感覚」と呼んでいた。その感覚に最も近いと思われる描写を、サルトルの小説『嘔吐』に見つけたからだ。もう手許にないので細かいことは忘れたが、主人公はドアノブや、マロニエの根や、甲殻類を見るたびに、その感覚に襲われる。今読み返せば、もう近いとは感じないかも知れない。「実存」という言葉さえ忘れていた。また何事にも「参加」した憶えがない。ただ浮かんで流されるに任せていた。

2003-07-01

向こうのものを掴むために伸ばした手で、自分のからだに爪を立て、掻きむしり、壊してしまうのはよくない。病気の草もそんなことはしない。伸ようとするだけだ。

2003-07-01

人間の悲惨を形成する、幸福と不幸、幸運と不運の網目。

2003-06-29

Deo Optimo Maximo

2003-06-29

グレゴリー・ベイトソンの喩えるところによれば、問いとは一本の鎖を引張ることであり、答えとはそこで壊れたひとつの環である。

卵子は問いであり、精子はその答えである。(しかしそれは唯一の答えではない。卵子は針のひと突きからも答えを受け取り、分裂を開始するという。)

古代中国の占術である卜(ぼく)は 甲骨を焼き、そこに走った偶然の亀裂から、うらないごとの吉凶を読む。 これに対して占星術は、ある運命の全貌を、諸天体の座相から算出し得る必然として告げる。易にはこの両極(すなわち陰陽に対するもうひとつの対極としての偶然と必然)の合一がある。

(ではマラルメの場合は?「骰子一擲いかで偶然を廃棄すべき」)

2003-04-03

時空連続体という概念が生まれるためには、まず時間と空間の概念が十分に切り離されていなければならなかった。 この意味ではデカルトも恩人に数えられて然るべきではないだろうか?

1999-12-31/2003-03-15/2003-6-11

空間とは問いであり、時間とは答えである。
すなわち、空間とは場であり、時間とは機会である。

(空間:時間=可能性:確定。雷は一瞬に唯一無二の軌跡を描く。)

2003-06-26

群れmureは村muraをつくる(村muraは斑muraか)。さらにその中でも「類をもって集まる」といったことが起こる。街角に不良少年がたむろする。反体制分子が地下に集う。隠語や合い言葉、変わった好みや目立たない徴で確認しあう、仲間、同志、義兄弟。その真向かいに「家族」がある。仲間達の一貫性と比べてみれば、家族はまるで偶然の吹きだまり。墜落するかも知れない飛行機に乗り合わせた人々にも似ている。「家族とは我慢して仕方なく付き合わねばならない人々のことです。」と言う人もいた。「人類はみな兄弟」と「人類はみな家族」では、同じようでも大きな違いがある。

ウィリアム・バロウズの映画式小説『ワイルド・ボーイズ』には、不思議な単性生殖で仲間を増やす不良少年団の様子が描写されている。レーモン・ルーセルの『アフリカの印象』では、ポニュケレ国王家の血統図が物語の舞台となる広場の要に据えられている。

(ノーマン・オリヴァー・ブラウンが書いた『ラヴズ・ボディ』によれば)オルテガ・イ・ガゼは群れ集う不良少年の一群に政治の本質を見ていた。ローマ建国の祖、ロムスとレムルスは荒野で狼に育てられる。--中断--

2003-6-19, 20

海水と淡水の中間領域を汽水域と呼ぶことを知った。汽水域では比重の違いから淡水と海水が上下に別れて層状に分離する。その境界面では陽炎に似た光の不規則な屈折が見られるという人もいた。海水は淡水の下を楔状に潜行して時には数十kmも淡水域を遡り、徐々に淡水と混ざり合う。

汽水域は海水に含まれる多量の酸素と、淡水に含まれる窒素や燐の効果によって、富栄養化の最も盛んな領域となる。そこに交差的で複雑精妙かつ多様な水棲生物の生態系が形成される。また汽水域はあらゆる陸棲生物の「故郷」であるともいわれている。

汽水域の塩分濃度は河口付近から上流の河川湖に至るまでの範囲で大幅に変わる。その変化に順応して広範囲の水辺に繁る植物は葦であるという。人間を葦に喩えたパスカルは正しかった。上空から見ると、人はほぼすべての水域にそって定住しているということが一目でわかる。人は葦である。

チチカカ湖には人の棲む葦の浮島がある。 彼等は家と船を葦でつくり、葦の茎を食べ、湖面 を漂いながら生活する。この浮島は人工のもので、刈り取った葦を幾重にも重ね、作業にほぼ二ヶ月を費やせば新しい島が完成するとのこと。彼等はスペインによる侵略の手を逃れて、十六世紀以来このような生き方を続けているのだという。

マングローブmangroveは亜/熱帯の河口付近から海岸に生育する、およそ百種類の植物を指す総称であるという。アニー・ディラードは『逗留者』と題されたエッセイの冒頭に「生存が一種の芸術だとすれば、マングローブはまさに美しき生存の芸術家だといえる。」と書く。「こうした海岸線の木が、よくある偶然によって浮島になるのだ」。そして「地球は閉ざされた宇宙船――宇宙船地球号――というより、美しくも自由な、裸のままのマングローブの島に似ている。そこの住人たるわたしたちは、出発したときはちっぽけだったが、それ以来、よりどころとなるたくさんの腐葉土を、人間文化を、かき集めてきた。わたしたちはこの汚泥に根を張り、これを背負ってどこへともなく漂っていくのだ。」

おおまかに調べてみたところ、mangroveは残念なことにman-groveではなく、ポルトガル語のmangueと英語のgroveから成る合成語とされていた。mangueは果物のマンゴーmangoをも指すが、ここでのmangueはポルトガルに植民化された地域の先住民がマングローブを指して用いた言葉に由来するらしい。「おんぶ」が「ombro=肩」であり「じょうろ」が「jarro=水差し」であるように、また「soja」や「soy」がいずれも「醤油」に由来するように(soy bean=醤油豆)、mangueにも本来の意味があったに違いないのだが、その意味の根は途切れていて、今はこれ以上辿ることが出来ない。琉球ではヒルギと呼ばれ、漢字表記は「漂木」とされる。

2003-6-15

David Tudorの"Rain forest VI"は相違と相互浸透の交差領域をひらく。

2003-6-15

「前衛芸術と平和運動のあいだには何が横たわっているのだろう。」

瀧口修造がオノ・ヨーコについて書いた文章は、およそこのような言葉で始まるということをいま思い出した。 (二十年以上前に神田の古書店で立ち読みした「ぶっくれびゅー」誌のオノ・ヨーコ特集号)

平和を切望する。平和とは、誰もが平等に、より根源的な人間の悲惨と向き合うための窓ではないだろうか。

2003-6-15

草をむしっても、根こそぎにしなければまた生える。前とは違うところから、違うかたちで、何度でも執拗に生える。そのようにして続けること。

2003-6-14

発散する連続は予測できない/収束する連続は予測できる(GB)

2003-6-14

技量は質を保証しない。そればかりか、致命的な欠落の正当化に易々と利用される。

2003-6-14

飢えて、人口過剰の、病んだ、覇気満々たる、競争心旺盛な世界(GB)

2003-6-14

浅ましいことに比べれば、貧しいことはむしろ望ましい。

2003-6-14

ジョン・ケージの最後の視覚作品は、浅草海苔やタタミイワシにも似た"vegetable Paper"の連作だった。おそらく彼のアパートの台所に置かれていた、業務用とおぼしき立派なフード・プロセッサーから直接生まれたものに違いない。

ケージの第一著作集には、食べられる新聞のことが書いてあった。この架空の新聞は、たしか蛋白質の繊維で出来た紙に香辛料のインクで記事が刷られていて、教養と栄養が同時に摂取できる。ホームレスの人ならば、新聞を寝具と食料と娯楽の三通りに役立てることができる。

誰かに「今はどうやって食べてるの?」と聞かれたら、例えば「工場で働いている」とか「いろんなことをして何とか食ってる」などと答えれば、相手は十分に納得する。しかし様々な労働の中で、食べることに直接関係しているものはごく一部に過ぎない。我々は「働かなければ食べていけない」という信仰に支えられた社会のなかで生きている。「働かざる者食うべからず」という言葉もある。

R・バックミンスター・フラーはephemeralisationという概念を発明している。ephemeraは羽虫の「かげろう」を意味するが、俗語では特に量産品のおまけのような駄物一般を指す。フラーのephemeralisationは産業技術が貴重品を駄物化していく過程を指す言葉だ。例えば、時計はすでにephemeraliseされたもののひとつに数えられる。かつて時計は限られた技師の技によってのみ造り得る貴重品であったが、今では必要十分な精度のものが子供のおこづかいでも買えるし、わざわざ買おうとしなくても、すでにあらゆるものに組み込まれている。習慣的な行為が意識下に沈んでいくように、ある社会において有用な技術は普及することによって意識されなくなっていく。

(ephemeralisationはベルタランフィのcanalisationと相同関係にあるようだが、まだ確かめていない。)

食べることがephemeraliseされていくような社会、もしくは労働がephemeraliseされていくような社会を考えることができるだろうか。
シャルル・フーリエは--中断--

2003-4-16/2003-6-12

子供の頃に好きだった遊びのひとつは、放送時終了後の深夜のテレビをこっそり点けて、ひたすら見つめ続けることだった。やがてモノクロームの砂嵐に流れの向きが見え始めると、後は意のままにその流れを操って、好きなかたちを自由に描くこともできる。ホワイト・ノイズと呼ばれる音でもそれに近いことができる。ただしこちらは決して意のままにはならない。意識を集中させ続けると、何の前触れもなく未知の音声が遠くから聞こえて来るのでとても恐かった。それでもラジオの中間ノイズなどに聞き耽るのを止めることができなかった。このような遊びの中で、次第に遠くへ流されていく自分を連れ戻すために、週刊マンガ雑誌や流行りのおもちゃは重要な役割を果たしていた。しかしある日それが効力を失い、どこまでも遠くに流され続けて今はここにいる。

2003-6-11

崇高と至上の通念に支えられて芸術はあった。前衛も結局は同じだ。

2003-5-26/2003-6-11

列車と映画は似ている。どちらにも時刻表がある。集まるのも別れるのもみんな一緒。四角く切り取られた景色が刻々と予定どおりに変わっていく。時には雨が降る。事故もある。ふいに止まる。燃え上がる。

2003-6-07

ベルイマンの最後のドラマ『ファニーとアレクサンデル』の中で、真夜中の子供部屋に入ってきた二人の父は、そこにあった質素な椅子を中国黄帝の玉 座に変える。

2003-6-07

音による作品をつくり始めてから十年になるが、発表らしきことは数えるほどしか行っていない。発表できるものがないわけではないし、その数は今も増え続けているのだが、誰を相手にどこでどう展開すればよいのか全くわからない。

作品の素材は主に使い慣れた(古い)音響機材と手作りの電子回路であり、最初の発見や着想を手がかりに、語順を並べ変えるように配線を繋ぎ変えてひとつのシステムを組み立て、組み直し、組み換えていく。うまくいけば思いもよらない何かがあらわれる。日々自由に使えるわずかな時間はそのために費やされる。

こうしてできあがったものを音楽と呼ぶべきかどうか、いつも迷う。仮に音楽と呼べるにしても、それはシステムが実際に音を響かせている間に起こることでしかないようだ。システムそのものは音楽ではなく、あくまでもシステムでしかない。そのシステムもまた、作動しない限りはシステムともいえない。システムのふるまいが音楽の可能性を随伴しているというべきだろうか。そしてシステムの示す多様性が極限に至ることを願ってあれこれといじりまわさずにはいられないのだが、それが裏目に出ることも多い。ごく僅かな違いによって、システムは単調な反復の谷間に易々と転落して逝ってしまう。

つまりは機材も回路もシステムの台座に過ぎず、そのシステムでさえ音楽が通り過ぎる広場のようなものに過ぎない。しかし音楽という言葉はあまりにも余計なものを引き連れている。ここでの音楽とは、折り重なる無数の条件の中でようやく立ち上がる虹のような、ひとつの成就を表す言葉である。この音楽は、果てしない可能性の海(ノイズ)の中で、いかなる意味も伴わず、ただ顕われる。

音楽を待ち望むだけでよいのかも知れないと思うことがある。あるいは耳が音楽に向かって開き始めるまでじっと待つ。何故それだけで満足しないのか?

2003-6-05

あえて靴を磨かないでおくこと。
(靴を磨かずに履き続けること。)

2003-5-25

まだ小学校に上がる前だったと思うのだが、夕立ちの後で初めて見た大きな虹から、無数の鈴が一斉に鳴り響くような不思議な音がするのを確かに聞いた。その源を突き止めようとして歩き回っているうちに、やがて虹は消え、音も止んだ。
たぶん同じ頃、遊びに行った親戚の家で熱を出して寝ている時に、焼却炉の夢をみた。その焼却炉で菫の花を燃やすと、地響きのような恐ろしい音がしばらく続いてぴたりと止む。手には菫がたくさん握られていて、これをすべて燃やさなければならない。怯えながら作業を続けているうちに目がさめた。熱もさめて家に戻ったが、同じ夢をそれから何度も見た。僕はこれをピアノの夢と呼んでいたのだが、その理由は忘れてしまった。

2003-5-23

空気は目に見えないので、それが自分の動きによって絶えずかき乱されているということを意識するのは難しい。これは当たり前という言葉で切り捨てられてしまうことのひとつだ。

塩を撒いたところには草が生えない。力士は土俵に塩を撒くが、ローマ人もカルタゴの土地に塩を撒いたという。土俵は神聖な場所とされるが、カルタゴの場合はどうだったのか。

2003-5-23

医療が発達して病いの裾野がどこまでも拡がっていくと、最後はどこに辿り着くのか?

2003-5-21

モーターや蛍光灯の持続音が、聞く場所や姿勢によって変化することに気付いたのはいつ頃だったか。そんな音が鳴り響いている空間に出会うと、自分でも気付かぬうちに頭を傾けたり回したりして楽しんでいる。コップや何かの器があれば、それを耳に近付けたり離したりして、フィルタリングすることもできる。このパソコンの排気音はとても複雑だ。試しにコンタクト・ピックアップを取り付けてみると、その位置や付け方によって多彩な響きが顕われる。まるでラジオのようだ。

2003-5-20

中学二年の頃、ブラスバンド部の才媛であった小林さんから高橋悠治の第二著作集『音楽のおしえ』をもらった。よく理解できないところばかりなのが気にかかり、それからずっと読み続けて二十七年が過ぎ、当時の著者の年令を過ぎて、ようやくいくらかの共感とともに頁を追うことができるようになった。カバーは紛失し、表紙の角は擦り切れ、紙は黄変しているが、自分にとっては盟友のような本である。助けられたことも多かった。しかし実は少しだけウラミがある。一九二頁『ことばのカーニバルIX 帰郷の道――民族音楽ブーム』の書き出しは「なれない気候やことばや、入国手続きになやまされることなく、異国のふしぎなひびきを楽しむ。安全無害な脱出、衛生的なロマン主義、カネのかからない観光。あこがれるのは地平のかなたか、それともかなたに身をおき、故国の幻想にひたるのか。」というもので、それに続く段落はもっと辛辣だった。民族音楽を含め、もっぱら不思議な響きを追うことに夢中だった当時の僕は、ガムランやウードやシタールの音色に恍惚を覚えていた自分が、なにかとても恥ずかしいことをしているような気持ちになり、それからはレコード屋でも図書館でも、民族音楽の棚だけは避けるようになった。民族音楽ファンの友達にはつらくあたった。なぜそうなってしまったかといえば、さらにその続きとして書かれていたところの意味をうまく汲み取れなかったことにある。幼かったという他ないが、諸国の音楽を少年時代の耳に深く染み込ませる機会は失われた。今はその分を取りかえそうとしている。図書館でCDを聞き、小泉文夫を乱読し、ホセ・マセダの和訳本を開く。その訳者は高橋悠治だ。

2003-5-19

「糸は結ぶものです、切れるから」という言葉があったように思い、
調べてみたところ「おとは糸です、つたわるから」であることがわかった。

これは詩人の藤井貞和が三味線奏者の高田和子に贈ったものだというが、
村井が記憶していた言葉の方は、 果たしてどこからやって来たのだろう。

糸は結ぶものです、切れるから

2003-5-14

1992年、おそらく初夏、深夜のファミリー・レストランでの蔡國強との会話の記憶。

C「ジョン・ケージには悟りがありましたか?」
M「いいえ。ケージはむしろ真理の人という印象でした。」
C「わかります。悟りは同意を必要としない。しかし真理は一般への証明を必要とする。」


…悪はどうしても善の似像を含まずにはいられない。なぜなら、すべてのものが、善のために証しをするからである。カインも、アベルと同じく、ユダもキリストと同じく、証しをしている。だが一方は、望んで証しをするのであるが、他方は、誤解によって証しをする。 キリストと同じく、わたしたちもみな、真理のための証しをするように、この世につかわされたのである。だから、わたしたちは何をしようと、証しをするほかはないのである。

シモーヌ・ヴェイユ/田辺保訳『超自然的認識』(勁草書房/1976)p249

1999-8-10/2003-03-15/2003-04-05,06

たとえばゾウリムシのような単細胞生物をとってみよう.こいつのほとんど唯一の反応の仕方は逃避反応(phobotaxis, 驚動性)であって,これによってゾウリムシは化学刺激,触覚刺激,熱刺激,光刺激等のありとあらゆる刺激に反応する.けれどもこの単純な反応によっても,特殊な感覚器官をそなえていないこの動物に好適な条件の場所を案内するには十分安全である.ゾウリムシの環境内にある藻類,他の滴虫類,小さな甲殻類,機械的障害といった多くのものは,ゾウリムシにとって存在しないのである.ただ一つの刺激が受けとられ,それが逃避反応をひきおこす.

この例が示しているように,生物の構造的,機能的設計が,生物が一定の反応で応答する「刺激」や「特徴」となるのは何であるかを決定している。フォン・ユクスキュルの表現によればどの生物も,周囲の対象の多重性から少数の特徴をいわば切りとって,それに対して反応し,その特徴の総体がその生物の「環境(Umwelt)」を形づくる.残りはすべてその生物にとって存在しない.すべての動物はしゃぼん玉によるように,その動物にとって受け入れ可能な特徴で満ちたその生物特有の環境によって囲まれている.もし動物の環境を再構成しようとして,私たちがこのしゃぼん玉に侵入すれば,この世界はひどく変わってしまう.多くの特徴が消えうせ,同時に別の特徴が浮かびでてきて完全に新しい世界が見いだされることとなる.

フォン・ユクスキュルは無数の例を引いていろいろな動物の環境を記述している.たとえば,ほ乳動物の皮膚にたかって血を吸うダニが,ヤブの中で動物が通るのを待ちぶせしているとしよう.その場合の信号はすべての哺乳動物の皮膚腺から出る酪酸の匂いである.この刺激を追って,ダニは落下する.もし温かい体の上に落ちれば  鋭敏な熱感覚でこれを感じる  ダニは温血動物という餌にありついたことになり,あとは接触感覚の助けをかりて,毛の生えていない場所を見つけて口を突き立てるだけでよい.このようにしてダニの豊富な環境はわずか三つの信号が灯台のようにまたたいているだけの貧弱な構成に縮小し変態する.だがそれでもダニが目標を達するには十分なのだ.またある種のウニは,暗くなるとトゲを波立たせて反応する.この反応はいつでも,雲やボートの陰がさしても,あるいは本当に敵の魚が近づいても起こる.つまり,ウニの周囲にはいろいろなものがたくさんあるが,真に環境となるのは光が暗くなるという一つの特性だけである.

フォン・ベルタランフィ/長野 敬・太田邦昌訳『一般 システム理論』(みすず書房/1973)p222, 223

Universe to each must be
All that is
including me,
Environment in turn must be all that is
Excepting me.

The experience we call life
Begins with awareness
No otherness, no awareness
No environment, no me.
Me subjective, me objective,
as stimulated
By the eternally transforming
Otherness scenario.

R. Buckminster Fuller

試訳)

それぞれの宇宙は
私を含む
すべてであるに違いなく、
環境はその逆に
私を除くすべてであるに違いない。

生と呼ばれる経験は
意識とともに始まるが
外界なしに、意識はなく
環境なしに、私もない。
主体の私も、客体の私も、
永遠に変転し続ける
外界というシナリオに
突き動かされている。

リチャード・バックミンスター・フラー

2003-04-05

「父であることと子であることとは異なるが、しかも実体が異なるのではない。なぜなら、父といい、子という表現は実体によって言われるのではなく、関係によって言われるからである。」 (アウグスティヌス)

紙の上のしみが余白に取り囲まれてあるように、この紙もまた様々なものに取り囲まれたひとつのものとしてある。 常に一方と他方(あるいは彼岸と私岸か)があり、我々はその境界を見る。 しかし、そこに「境界というもの」があるのではない。

2003-04-03

ニカイア信条
原ニカイア信条(325年)に幾つかの修正と追加がなされ、
コンスタンティノポリス公会議(第2回381年)において同意され、
カルケドン公会議(第4回451年)で確定されたもの

われらは、天と地と、すべて見ゆるものと見えざるものとの造り主、全能の父なる唯一の神を信ず。われらは、また、唯一の主、イエス・キリストを信ず。主は、神のひとり子、よろず世のさきに御父より生まれたる神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずして生まれ、御父と同質にして、すべてのもの御子によりて造られたり。御子は、われら人類のため、またわれらの救いのために、天より下り、聖霊によりて、処女マリアより肉体をとりて人となり、われらのため、ポンテオ・ピラトのもとに十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書に従い三日目に復活し、天にのぼり、御父の右に座したまえり。また、生ける人と死にたる人とをさばくために、栄光をもって再び来りたまわん。その御国はおわることなし。われらは、また、主にしていのちを与うる聖霊を信ず。聖霊は、御父と御子とより出で、御父と御子とともに礼拝せられ、ともに栄光を帰せられ、預言者たちによりて語りたまえり。また、唯一の聖なる公同の使徒的教会を信ず。われらは、罪のゆるしのための唯一の洗礼を告白す。われらは、死人の復活と来たるべき世のいのちとを待ち望む

fish song

javascriptによる自動生成詩

2000-01-05/2003-03-30

言葉や身ぶり等々の連鎖の中で、ある時は意味が得られ、またある時は無意味が得られる。意味や無意味は複合的な状況から生まれ、その強度によっては状況の性質が変化する。

個々の語や身ぶり等は認知された事物や事態に対応すべく定義された記号に他ならず、それ自体は意味を持たない。例えば辞書は定義(あるいは説明)のみを示す。

辞書における語の定義においては、その語を除く複数の語群等によって、定義される語と等価の意味組織が示される。「語の(単一の)意味」の正体は、その語の周囲で稼動する意味組織である。意味組織を随伴しない語は意味不在であり、無意味なのではない。語は意味組織に向かって解消する。--中断--

2003-03-28, 30

「眼を見ることはできるが、耳を聞くことはできない。」マルセル・デュシャン

世界という言葉は、ある全体において認識可能な有限の領域を指す。とすれば、「音」のことを「耳が切り取った世界」と呼んでも間違いではない。しかし「光」のことを「眼が切り取った世界」と呼ぶことはできない。眼が切り取るものはいつでも「あれ」や「これ」に尽きるからである。

「音の世界」に較べると、「光の世界」という言葉からは何か想像を絶するものという印象を受ける。我々は「光に照らし出された世界」や「光の及ばぬ世界」のことしか知らない。光源を見つめると眼が傷む。

人間の耳はおよそ20Hzから20kHzまでの波長帯域を感知する。眼は紫外線と赤外線に挟まれた波長帯域を完治する。このように書くと、音と光はいかにも類縁関係にあるかのようだが、それは誤りである。何故ならば、波というのは変化の一様態に他ならず、我々は変化を多様に解釈しているのであって、音や光という言葉は、そのような解釈大系における一種の術語に過ぎないからだ。--中断--

1999-7-14/2003-03-15, 16, 26, 27, 28

油は霊である(ヴェイユ)

油の水に浮く様から導かれた象徴(あるいは灯油か?)。水は葡萄酒であり、葡萄酒は血である。 また水の中の魚はキリストを象徴する…
とヴェイユは書く。

しかし、例えば乳から分離した脂は元に戻らない。何かが生活から分離して芸術や文化や宗教や思想に転じると、それまでの統合性は失われてしまう。肉体から諸成分を抽出することは可能だが、それを混合しても出来上がるのは不潔な水に過ぎない。「覆水盆に帰らず」と昔の人は指摘する。 奇跡は取り返しがつかない。

1999-09-11_1999-09-13/2003-03-15, 16, 26

私の信ずるところでは、生は詩から成り立っています。詩は、ことさら風変わりな何物かではない。いずれ分かりますが、詩はそこらの街角で待ち伏せています。いつ何時、われわれの目の前に現われるやも知れないのです。

書物は、物理的なモノであふれた世界における、やはり物理的なモノです。生命なき記号の集合体なのです。ところがそこへ、まともな読み手が現われる。すると言葉たち――言葉たち自体は単なる記号ですから、むしろ、それら言葉の陰に潜んでいた詩――は息を吹き返して、われわれは世界の甦りに立ち会うことになるわけです。

告白しますが、書物はことさら取り上げて崇拝すべき不壊の対象ではなくて、むしろ美の契機である、と私は思っています。当然そうあるべきでしょう。言語は絶えず変化しているのですから。

カンシノス=アセンスは非常に素晴らしい散文詩を物していて、そのなかで神に、自分を美から護ってほしい、救ってほしい、と乞うているのです。なぜならば、と彼は続けます――「この世には美が過剰である」と。私がとりわけ幸福な人間であったかどうか、この点は分かりませんが(六十七歳の高齢に達したのですから、これから先、そうなれると期待しています)それでも私は、美は常にわれわれの身辺にあると考えるのです。

詩は論理という一握りの硬貨を取り上げて、魔術に変換しようと試みるわけではない。むしろ、それは言語をその源泉に引き戻そうとしている。

(言語は)、長い時間をかけながら農民によって、漁民によって、猟師によって、牧夫によって生み出されてきました。図書館などで生じたものではなく、野原から、海から、河から、夜から、明け方から生まれたものなのです。

皆さんもご存知のとおり、私は無謀にも物を書くようになりました。しかし、自分が読んだものの方が自分で書いたものよりも遥かに重要であると信じています。人は、読みたいと思うものを読めるけれども、望むものを書けるわけではなく、書けるものしか書けないからです。

ホルヘ・ルイス・ボルヘス/鼓直訳『ボルヘス、文学を語る』 (岩波書店/2002)抜粋
Jorge Luis Borges "This craft of verse"

「人々は自分たちの思考を話すことができるようになるよりはるか以前に、その感情を歌う」
「言葉は遊びとして創造された」
(イェスペルセン)

「言葉はそれ自体の性格と本質から隠喩的なものである」
(カッシーラー)

シュザンヌ・ランガーは言葉について「その起源は物事の意味に対する自然な適応や方法にあったのではなく、無意味な甘え言葉の本能と原始的な美的反応や思考への夢のような連想にあった」としている。

N.O.ブラウン/秋山さとこ訳『エロスとタナトス』(竹内書店新社1970)p79-80 から引用部分を抜粋

269.02 The silence is ultratunable; the noise is infratunable; and the music is tunability itself. Color is special case tunable.

1053.827 The music of John Cage is preoccupied with the silent intervals; his growing audience constitutes the drawing of the transition of all humanity into synchronization with the metaphysical rather than the physical. The decibel amplification of youth's "rock" music has switched its beat into the old silent intervals and is inducing metaphysical preoccupation in its listeners.

from R. Buckminster Fuller "SYNERGETICS 2" (MACMILLAN 1979)

試訳)
269.02 沈黙は超調域である;ノイズは暗調域である;そして音楽は調整能それ自体である。色彩 は調域の特例である。

1053.827 ジョン・ケージの音楽は沈黙の間合いで占められている;増加し続ける彼の聴衆は即物的であるよりもむしろ形而上的な領域に同調しつつある全人類の姿を描き出す。増幅率を競い合う若い世代の「ロック」ミュージックはそのビートをいにしえの沈黙の間合いに転じ、聴衆はその心を形而上的な領域への執心で満たしつつある。

リチャード・バックミンスター・フラー "シナジェティクス 2"より

variableは変数と訳されるが、tunableには適当な訳語がない。とりあえず「調域」としてみた。またultratunableとinfratunableの関係は、ultra-violet(紫外線)とinfra-red(赤外線)の関係に等しいものと考えられる。いずれも不可調域を指す言葉ではあるのだが、その不可調性における両極の差異が、ここでは特に重視されるべきものと思われる。

1999-07-30/2003-03-15

アニー・ディラードはその著作の中で、マリウス・フォン・ゼンデンの『空間と視覚』から、白内障手術によって視力を回復した先天性視覚障害者たちについての記録を引用している。

…ほとんどの患者には空間という概念がまったくなかった…ある患者は「深さの概念がなく、それを丸みと混同していた。」…はじめて目が見えるようになった人には、世界は目が眩むような色とりどりのつぎはぎに見える…彼らはこの色彩の感覚に感動して、すぐに色の名前をおぼえるようになる…それにもかかわらず…いつも自分の真ん前に目に見える空間があるということに、彼は衝撃を受ける…以前は手でさわれる程度と思っていた世界がほんとうはとてつもなく大きいということが、患者たちを圧迫する…重荷になる…憂鬱になる…目が見えない状態に戻ったとき以外は、すこしも幸せそうに見えない…見ることをおぼえようとする人たちもいる…それは彼らの生き方を変えてしまう…目が見えなかった人たちに特有の、心打たれるほどの静寂が、急激にしかも完全に失われてしまう…いままでの自分の習慣を恥じて、服装に気を使い、小奇麗にして、人にいい印象を与えようとする…価値のふるい分けが始まり…

…二二歳の女性は世界のあまりの明るさにとうとう目が眩んで、二週間のあいだ両眼をしっかり閉じていた…もう一度目を開けたとき…彼女は繰り返し「ああ、すごい!なんてきれいなんでしょう!」と叫んだ。…

アニー・ディラード/金坂留美子他訳『ティンカークリークのほとり』 (めるくまーる/1991)p47-52

ファンダメンタリズム/Fundamentalism

根本主義。1920年代、アメリカ・プロテスタント諸教派内に起こった論争的保守的運動。進化論や聖書の高等批評を容認したり社会的福音(ふくいん)に同調する神学的近代主義に抵抗し、逐語霊感説による聖書無謬(むびゅう)、キリストの処女降誕、刑罰代償説、キリストの復活、キリストの再臨などをキリスト教信仰の根本教義と主張し、その「ファンダメンタルズ・真理の証言」(1910〜15)はアメリカ国内に驚異的支持を得た。熾烈(しれつ)な論争が起こり、とくにバプティスト派や長老派において異端摘発や追放、分裂を引き起こした。南部諸州で栄え、テネシー州では公立学校から進化論を閉め出した(1925)。しかし30年代には影響力が衰え、排他的・攻撃的性格を弱め、50年代以降福音派がそれを継承した。(抄録)

『日本大百科全書(ニッポニカ)』データベースより

プロテスタント教会/Protestant Church

16世紀のルターやカルバンによる宗教改革の流れをくむキリスト教会。ローマ・カトリック教会、東方正教会とともにキリスト教の三大教派の一つ。直接には1529年シュパイエルで開かれた神聖ローマ帝国議会(シュパイエル国会)において、皇帝カール5世の名の下に宗教改革運動が否認されたとき、皇帝に反対して「抗議」(Protestation、ドイツ語)した人々の教会をさす。以後「福音的」ということばとともに、カトリック教会に反対する改革賛成派の総称になった。しかし、450年以上も経過した今日では、事情も変わったので、各派を見渡した統一ある特色を述べることは、ほとんど不可能なほどである。だが、あえて定義すれば、聖書の福音に根ざしつつ不断にその実現を目ざすことが、その特色といえよう。(抄録)

カルバン/Jean Calvin (Cauvin), Joannis Calvinus

ジュネーブの宗教改革者。スイス改革派教会の創始者の1人。パリ北部に生まれる。パリ大学で、カトリックの聖職者を目ざすが、のちに法学に転じ、ブールジュ、オルレアン両大学で学ぶ。このころフランス国内の教会改革運動に触れ、パリに戻って古典研究に没頭、33年には処女作としてセネカの『寛容論注解』を出版。同年信仰上の理由で、亡命を余儀なくされ、各地を転ずる間にチューリヒやストラスブールなどの改革者と知り合った。35年から、福音主義弁証の目的で執筆された『キリスト教綱要』は、翌年春に公刊された。本書は、プロテスタント神学の集大成として現代に至るもなお古典の地位を保つ。自身は学究の道を志したが、偶然の事情からジュネーブの教会改革にかかわり、それ以後没年に至るまで同市の宗教と政治、さらに市民生活全般の福音主義的改変に献身する。一方では当時のカトリック教会の悪弊と誤謬を正すとともに、世俗権力の支配・干渉から独立した自律的教会の形成を目ざしたが、市民の反発を招き、38年ストラスブールに亡命。この地の改革者ブツァーに多くを学び、ジュネーブに呼び戻されて、福音主義の教理と倫理を追究した。前掲の主著のほか、旧・新約聖書注解や各種の論争文、説教?書簡など膨大な著述は『宗教改革著作集』中の『カルバン著作全集』六十数巻に収められ、なお続刊中である。カルバンは教会権の自律性を確保し、規律ある教会訓練を実施するため独自な教会政治の形態として、平信徒代表も加わる長老制を事実上創始した。それは、やがて政治の局面 にも転用され、近代民主主義の形成にも資するところ少なくなかったと評される。(抄録)

ルター/Martin Luther

ドイツ宗教改革の指導的神学者。アイスレーベンに生まれる。1505年エルフルト大学在学中、突然雷雨に襲われ、死の恐怖のため修道院に入り、12年神学博士となってから聖書学を担当。この間、ただ信仰によってのみ神から授与される「神の義」を発見する。これが宗教改革的認識とよばれる新しい神学の出発点となる。この認識に基づいて聖書の講義を行い、罪の赦しのための悔い改めの礼典に疑問を抱き、教皇の免罪符について学問上の討論を開く目的で、1517年10月31日、有名な「95か条の論題」を城教会の扉に提示した。この論題はたちまち全ドイツに広まり、宗教改革運動の発端となった。18年、アウクスブルクで教皇使節に自説の撤回を求められたが拒否し、19年にはライプツィヒで神学者エックと討論し、教皇も過ちを犯しうると認めたため、ローマ・カトリックと分裂。20年教皇の破門勅令も焼き捨てた。21年ウォルムスの国会で自説の撤回を拒否したため、帝国追放処分を受けた。しかしザクセン選帝侯にかくまわれ、急進的革命家の騒擾を抑えて福音主義教会の確立に努める。その間、ドイツ農民戦争(1524〜25)に巻き込まれ、エラスムスと自由意志論争をなし、さらにマールブルク会談では聖餐について一致が得られず、スイス宗教改革者ツウィングリとも決裂し、プロテスタント同盟の夢が破れた。30年アウクスブルクの国会で宗教問題がふたたび討議され、メランヒトンが代行となり「アウクスブルク信仰告白」を提出したが、皇帝との対立は激化。そののち最後まで説教、講義、勧告、著述に携わる。著作は、宗教改革の全プログラムを提示した『キリスト者の身分の改善についてドイツ国民のキリスト教貴族に』(1520)、カトリック教会の礼典について批判した『教会のバビロン捕囚』(1520)、および信仰と愛にたつ自由な人間の本質を論じた『キリスト者の自由』(1520)など、100巻を超える。(抄録)

『日本大百科全書(ニッポニカ)』データベースより

カトリック教会/Roman Catholic Church

キリスト教の教会で、東方正教会(オーソドックス教会)、プロテスタント諸教会と区別して、ローマ教皇を頭(かしら)とするローマ・カトリック教会をさす。カトリックとは、「普遍的」「公同的」「一般的」という意味のことばで、自らをそうであると信じているキリスト教会が、全人類のための唯一の救いの機関であることを表す表現である。全世界キリスト教徒約19億7400万人のうち、約10億4400万人の信徒を有する最大の教会である(2000年)。日本のカトリック教会は1549年(天文18)フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸したときに始まった。1876年(明治9)日本カトリック教会は南緯、北緯の二つの代牧区に分けられたが、2000年現在では、北海道(札幌教区)から沖縄(那覇教区)まで16の教区に分かれている。これら教区の長である司教は、日本カトリック司教協議会(宗教法人カトリック中央協議会)を形成している。(抄録)

東方典礼カトリック教会/Eastern Orthodox Church

広い意味で古代の東ローマ帝国の領土において民族主義の枠のなかで生まれた諸教会をさす。狭い意味では正教会Orthodox、すなわちビザンティン典礼――典礼用語として古代ギリシア語、古代スラブ語、アラビア語、ルーマニア語などを使用。右から左へ十字を切る。パンとぶどう酒の両方を拝領するなどの特徴をもつ東方典礼様式――を用いている諸教会のことで、全世界に約2億の信徒がいる。教理、典礼、道徳の面で神学上若干の相違があるが、初代の七つの公会議の決議に基づく教えに関してはローマ・カトリック教会とほとんど同じで有効性も変わらない。東西ローマの分離以来、各国の教団が独立しているが、コンスタンティノープルの総大主教の名誉的首位を認めている。(抄録)

『日本大百科全書(ニッポニカ)』データベースより

欽定訳聖書

代表的な英語訳聖書。1611年刊。イングランド王ジェームズ1世がピューリタンの請願を受け、1604年、王が新しい英訳をつくることに賛意を表したため、47名(のち54名)の学者をウェストミンスター、オックスフォード、ケンブリッジに分けて共同作業をした結果生まれた。特徴の一つに、英語の語彙(ごい)を駆使し、自由に同意語を用いて文章に変化をもたせていることがあり、19世紀につくられたこの訳の改訂版が同一語・同一訳で平板になり人気がなかったのと対比される。(抄録)

ルター訳聖書 / Luther-bibel

宗教改革者ルターの訳したドイツ語聖書。新約は1522年、新・旧約の完訳は1534年の刊行。ドイツ語聖書はすべてラテン語訳聖書(『ブルガーター訳聖書』)からの重訳であった。これに対して、ルターはギリシア語、ヘブライ語の原典から訳した。その普及は驚異的で、近世のドイツ文章語の統一を進展させた。ルターは共通語の兆しを示したザクセン官庁語を使った。ただし、それは語形だけで、語彙(ごい)や文体は硬い官庁的な表現を避け、民衆にわかりやすい新鮮さを求め、死の直前まで訳の改訂に努めた。(抄録)

ブルガーター訳聖書 / Vulgata

ラテン語 ブルガーターとはラテン語のVulgata Editioの略で、「一般の、共通の」を意味し、カトリック教会で公式に用いられるラテン語訳聖書をさしている。これはヒエロニムスが382年教皇ダマスス1世Damasus(在位366〜384)の要請によって始めた訳業で、それまであった古ラテン訳を改めつつ、旧約の部は大部分自分の新しい訳によってつくりあげ、405年に完成した。このラテン語訳聖書は1546年のトリエント公会議においてローマ・カトリック教会の公認聖書となったのである。(抄録)

イタラ訳聖書 / Itala vetus

ラテン語 古代ラテン語訳の聖書。『旧約聖書』のヘブライ語原文は、紀元前3世紀ごろからギリシア語に訳され、七十人訳(セプトゥアギンタ)といわれて広く使われていたが、前2世紀にこの70人訳からラテン語に翻訳したのが、このイタラ訳である。これはギリシア語からの逐語訳で、文学的でも、美文でもなかったので、5世紀にヒエロニムスはこのイタラ訳を改訂し、美しいラテン語に直した。これがブルガータ訳Vulgataとして、それ以後カトリック教会の公式訳聖書として使われるようになるが、それまでは、このイタラ訳がもっとも重要な聖書テキストとして、西欧カトリック教会で使われていた。ブルガータ訳のなかで、「知恵の書」「集会書」「バルク書」「マカベ書」はイタラ訳が採用されている。(抄録)

七十人訳聖書

今日では紀元前3世紀中葉から紀元2世紀にわたってなされたギリシア語訳の『旧約聖書』を総称していう。「セプトゥアギンタ」Septuaginta(70の意)ともよばれ、LXXと略記する。これは『旧約偽典』の「アリステアスの手紙」がその成立事情を記し、プトレマイオス2世フィラデルフォス(在位前283〜前247)の治世に、『旧約聖書』(原典はヘブル語)の五書の最初のギリシア語訳が、パレスチナから派遣された72人の長老により72日間でなされたとしたことによる。しかしこの伝説は伝説として、「七十人訳」の名称は、今日では五書にとどまらず、『旧約聖書』全体の最古のギリシア語訳の意に用いられている。キリスト教会がその形成期にこれを用いた。紀元2世紀以後はもっぱらキリスト教会で書写伝達された。(抄録)

『日本大百科全書(ニッポニカ)』データベースより

Vita brevis, ars vero longa; sed occasio momentosa, empirica periclitatio periculosa, indicium difficile.

Life is short, the art long, opportunity fleeting, experiment treacherous, judgment difficult.

Hippocrates

The life is so short, The craft so long to learn.

Geoffrey Chaucer