村井啓哲 MURAI Keitetsu (Hironori) / 覚書 /2010-04-17 |
「ことが起これば事実は想像を打ち消して、それが実際にあるとおりのものにしてくれる。だから苦しいうちにも慰められる。そうした状態におかれると、新たな心配からは完全に解放され、希望から生まれる不安もなくなって…… 信じるとは、根拠なく受け入れることだから、確かめようのないことは信じようと信じまいと、根拠がないという点では同じといえる。聖典には、某が信じなかったので然々の結果を招いた、というパターンが頻出する。獣などは信じるということなく、ただ感知する。すると人間らしさというのはどういうものか。 面白いと思うのは、一般に人間らしさという概念が夢想や推論ではなく情と結びつけられていて、それが機械的でも動物的でもない何かであると強く信じられている点だ。 2008-07-31/2010-04-17 |
2008-06-03 |
「artはinfomationではないから、たくさんなくてもいい」 2008-06-03 |
2008-05-05 |
2007-11-18 |
芳一の耳 平家の怨霊に差し出された冥界の窓 「眼を見ることはできる。耳を聞くことはできるか?」M.D. 「芸術は自然の模倣である」 2007-10-13/11-18 |
2007-09-05 |
"Present Tense" by Douglas Davis
現在形 2007-09-04 |
告知の草稿から:
……した。しかし現在、この窓は秘めやかに閉ざされつつあるようだ。テクノロジーの進展は人間を融合させるかに思われたが、距離の克服とは裏腹に、遠方と結ばれる友情の影で隣人は置き去りにされている。四季を通じて心地よい部屋は、夥しい犠牲を強いている。芸術はこのような事態をただ反映するものであるべきか。例えば凍えながら冬の星空を近しい人々と共に仰ぐ親密さの中で、我々は…… 2007-09-04 |
意識と本質
2007-08-08 |
Horatius, Carmina III. 2007-07-25 |
「ジョージ(マチューナス)はソーホーの生みの親だった。いま、ソーホーは商売画廊と気取ったカフェと服屋だらけの、浅はかなスノビズムの坩堝になってしまったけど、ジョージはそんなつもりじゃなかった。彼はただの汚い倉庫街に過ぎなかったソーホーを(反)芸術家の自治区に変えようとしたんだ。それで一軒のロフトを共同購入することから始めた。そこを徹底的に掃除したのが原因で喘息になってしまったり、金のことではマフィアに片目と方肺を潰されて……ジョージはソーホーの未来を片目で支払ったんだ。そしてその未来というのは、皆様よくご存知のとおり……もうあんな奴はどこにもいなくなってしまった」 去年の春、富山でベン・パターソンから聞いた話を、完全に忘れてしまう前に思い出しながら書く。しかし詳細はもうわからなくなっている。この日の痕跡として、靉嘔氏によって片目を乱暴に鉛筆で塗りつぶされたフルクサス・シンボルの虹色版画が僕の手元に残された。(この時ベンは靉嘔の求めに応じて、急病で倒れたエメット・ウィリアムズの代理として来日し、すべての予定をあんな終わらせたところだった。彼はロフトで孤独に死んだジョー・ジョーンズの第一発見者でもある。そしてエメットは今年の聖バレンタインデーに死んでしまった。靉嘔は東京とベニスで追悼のイべントを行った。それはまたナムジュン・パイク、エミリー・ハーベイ、岡部徳三の死に捧げるものでもあった。) 2007-07-23 |
V.E.フランクル/霜山徳彌訳『夜と霧_ドイツ強制収容所の体験記録』(みすず書房/1961)p126-127 2007-07-23 |
ジャン・スタロバンスキ−『フランス革命と芸術』邦訳より「注と補説」におけるバルナーブ『フランス革命序説』引用の抜粋 2007-06-16 |
仏教伝導教会発行「和英対照仏教聖典」第一部第一章第一節より抜粋 釈迦は転生せず入寂したと伝えられ、その悟りは無数の転生を繰り返した果ての終着点と捉えられる。それが方便であるにせよ、転生の概念は悟りという課題によって明瞭な方向性を与えられた。輪廻も解脱もそれ自体はヴェーダに説かれている概念であり、その構成を変えることで仏教は新たな視座を示した。解脱とは輪廻からの解脱であり、転生とは解脱に向かう過程である。ヒンドゥーは善行によって来世でのカーストが上昇すると説いた。反仏教。 解脱はまたコスモロジーからの解脱でもあるのだろうか?これまで共同体において、コスモロジー=統合的世界像の存在が、その全体から最小単位である個人に至るまで必須のものと考えて来たのだが、いま精密なコスモロジーを顕在化させる共同体はすでに何らかの病理を抱えているのではないかという疑念も抱いている。 ではコスモロジーなき共同体というものが--中断-- 宮沢賢治の『手紙 四』。 2007-05-07, 09 |
つくられる音楽と、聴き出される音楽がある。 聴き出される音楽。無数の現象が交錯する沈黙の空間から、急に涌いた雲のように、音楽が顕われる。小泉文夫ほどの耳男が、この音楽については何も触れていないようだ。何故か。 2004-06-07 ウィリアム・シェークスピアは『あらし_The Tempest』を書いている。 2007-03-29, 04-03
William Shakespeare "The Tempest", Act 3, Scene 2 その言葉も、川が合流に合流を重ねて海に流れ込むように、沈黙に還っていく。 2007-04-03 |
思考の歩みが以前のような強い記憶のあかりを失ったので、路面をひろく照らすことが出来なくなって来た。今はかろうじて、絶えず起伏の変わる足許だけが見える。いつでも未来は見えなかったが、何も見えなくなる前に、見て来たものや見えているものを手当り次第に書き留めておけば、後でビーズ玉のように使うことが出来るかもしれない。 2007-03-29 |
白鳥の歌 シャーロット/パイク ヴィデオの中で電子的な極彩色を身にまとったシャーロット・モーマンが奏でるサン・サーンスの《白鳥》 神は死んだ(ニーチェ)→紙は死んだ(パイク)→ヴィデオの死(クボタ・シゲコ)。スクラッチ・ミュージックはオーディオの死か? ランダム・アクセス 永遠 α-ω(キリスト) video_logy videoの死を発明したのはクボタ・シゲコである、とパイクは言う 2006-04-16/2007-03-21, 29 |
井筒俊彦『イスラーム文化』第三章“内面の道”に引用されたシーア派初代イマーム、アリーの言葉 2007-03-20 |
A Thanksgiving Prayer by William S. Burroughs "To John Dillinger and hope he is still alive. Thanksgiving Day November 28 1986" Thanks for the wild turkey and the passenger pigeons, destined to be shat out through wholesome American guts. Thanks for a continent to despoil and poison. Thanks for Indians to provide a modicum of challenge and danger. Thanks for vast herds of bison to kill and skin leaving the carcasses to rot. Thanks for bounties on wolves and coyotes. Thanks for the American dream, To vulgarize and to falsify until the bare lies shine through. Thanks for the KKK. For nigger-killin' lawmen, feelin' their notches. For decent church-goin' women, with their mean, pinched, bitter, evil faces. Thanks for "Kill a Queer for Christ" stickers. Thanks for laboratory AIDS. Thanks for Prohibition and the war against drugs. Thanks for a country where nobody's allowed to mind the own business. Thanks for a nation of finks. Yes, thanks for all the memories-- all right let's see your arms! You always were a headache and you always were a bore. Thanks for the last and greatest betrayal of the last and greatest of human dreams. 2007-02-20 |
人間=homo=adam 大地=humus=adamah 2007-02-18 |
「群盲像を撫ず」という諺と反対の状況については どのような喩えがあるのか。 2007-02-02 |
1 ある日突然、首を失った三人の男。 一人目は辺りをやみくもに探し回る。 3 黙示録の獣=大衆という推察(ヴェイユ) 2007-01-10 |
火と塩 星と果物
2007-01-02 |
突然思い出された、混沌とは未知の秩序である、というような誰かの言葉。それとも、我々は未知の秩序を混沌と見る、というのが正しかったか。後者の方が妥当。
我々に理解可能な秩序は知覚しうる領域の中でさえ、いつも極めて僅かな部分に過ぎない。法則は常に混沌/秩序を超えた時空の全域に作用している。古代ギリシアの神々は、いともたやすく情や欲に動かされ、禍福をない交ぜにして人に与え、人間の不遜は絶えず罰せられる(「イリアス」を参照)。これが人間と法則との関係であり、秩序はただオッカムの倹約則(単純則)を例証する。 2007-01-02 |
ポール・グリモーとジャック・プレヴェールによるアニメ『王と鳥』から、「鳥」の小さな息子たちの唄 2006-08-16 |
「歴史とは闘争の歴史である」
街路樹: 2006-06-23 |
宮沢賢治『銀河鉄道の夜』より蠍の最後の言葉から 2006-06-22 |
1 中世西洋の修道院であれほど多様な酒類が造り出されたのはなぜか。 2 MB:隠喩と象徴の天蓋に頭上を飾られた君主に他ならぬ彼が無用な説明を始めてしまった為に、その王宮と式服は消え去り、いまや彼は裸の遺伝子工学技術者として多重のキメラを創造する成就し難い実験の中に唯一人幽閉された孤独な英雄である。 3 単調な言論の手段としての芸術 4
池澤夏樹がサイードの引用するアウエルバッハの中に見つけた聖ヴィクトルのユーゴー 2006-03-8,26/05-14 |
2006-04-19 |
1 白鳥の歌 2 糸の切れた首飾りのビーズ玉すべてに内在する 2006-04-16 |
沈黙 真空に向かってすべてがなだれ込む 排水溝 雷鳴 マイスター・エックハルト 2006-03-31 |
出現・変化・消滅 2006-03-30 |
刺激と反応 機械 動物 2006-01-09, 02-11 |
後期旧石器時代にユーラシアの北で暮らした人々は、粘土や象牙による極めて写 実的な彫塑の類を遺している。研究者はその優れた技巧に驚きを隠さない。しかしこの傾向はおよそ氷河期の終わりと共に消え去り、記号的図像群と交代する。獣骨に刻まれた原初の暦は新石器時代初期のもの。 共同体の神聖なる表意文字は侵略を受けてアルファベットと化す。カドモスが撒いた龍の歯から萌え出た兵士(スパルトイ)の殺し合い。 レコン・キスタの終わり近くに、東方文献の膨大な流入に翻弄された神学の舞台の袖で図学の研究が進み、透視図法もそこから生まれ画法としてのリリエヴォと結合する。 2005-7-28 |
ある誰かについて学ぶということは、その誰かが何をどのように関連づけるかということ、つまりその思考=物事の関連付けのパターンを学ぶことである。これはその誰かの容貌あるいは癖や嗜好など、いわゆる特徴を調べ上げることとはまったく別 の次元に属する。特徴の調査は差異に焦点を絞るが、思考の調査においては… ?憑依 ?ミハイル・バフチンによるドフトエフスキー文学への注釈 ?自然主義小説家の流儀(フローベールの膨大な覚書) ウィトゲンシュタインは「語り得ぬことについては沈黙するしかない」と論考の最後に書いた。水の世界に生きる魚。(言語ゲームはその水面 が示す様々な景色に関する様々な記述である。それは有限であり、かつ永遠に変転する(これはフラーによる宇宙の定義))また彼は、同じ問題について少なくとも一度は考えたことのある人物だけが、自分の著作を理解するであろうと、同じ著作の冒頭に書いた。 陸地と海底。水位の変化につれて、ふたつの島がひとつになり、あるいは消えてしまうかと思えば、忽然と無数の島々が現れる。 2005-7-10 |
ロボットの製作技術がどこまで進んでも、決して人形の段階を超えることはない。それは徹頭徹尾、製作者の願望、要求、見識、等々の表現に過ぎない。一方、初期サイバネティクスの研究者達は彼らの命題群を検証するために機械を利用した。命題が無矛盾であれば機械はつつがなく作動する。その動作に異常があれば、命題それ自体が再検討される。 つまりそれは、そのような思考=作業による、演繹的かつ弁証法的な生命の考察であった。エアコンやミサイル、航空機に利用された自動制御技術は、そのような考察の残滓に過ぎない。またラッセルが探究し、ヴィトゲンシュタインが精査した論理哲学は、ノイマン型と呼ばれるコンピュータによって完全にパロディ化されてしまった。真と偽の問題は、単なる素子の明滅にまで矮小化されてしまった。あの沈黙の向こうにある「何ものか」については、もはや顧みられることもない。 ほぼひと月前、若い友人がフォン・ユクスキュルについて語った(彼はある学究機関で人工生命を研究している)。ユクスキュルは「環境世界」という概念を提唱した(という)。 「ある種のウニは,暗くなるとトゲを波立たせて反応する.この反応はいつでも,雲やボートの陰がさしても,あるいは本当に敵の魚が近づいても起こる.つまり,ウニの周囲にはいろいろなものがたくさんあるが,真に環境となるのは光が暗くなるという一つの特性だけである.」(ベルタランフィによるユクスキュルの再引用) 「ウニは光が暗くなるとトゲを波立たせて反応する」。これはひとつの観察報告であり、その限りにおいて認められる。しかし 「光が暗くなるとトゲを波立たせて反応するものはウニである」とするならば、ここに傲慢と堕落の扉がある。 中東では、お菓子やおもちゃのかたちをした色鮮やかな地雷が、無数の子供達の手足を奪った。フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?(映画『ブレードランナー』原作)』に登場するレプリカント達もまた、「知能」と「記憶」を巡って激しい虐待を受けた一群の子供達といえる。 2005-03-17, 20 |
レーモン・ルーセル『アフリカの印象』の二部構成は決して無駄なものではない。比例中項。 例えばY=2X-1(ただしXは正の自然数)から得られる数列(1, 2, 4, 8, 16, 32, 64, 128, 256, ......)に含まれる数は、1を除外すればどれもがその前後の数の比例中項となる(1:2=2:4=4:8=8:16......)。 2004-07-23 |
ergon energeia energy = en-er-gy entelecheia 2004-07-18 |
ひとり夢見る夢はただの夢 ジョン=ヨーコ 2004-06-15 |
ノヴァーリス/青山隆夫訳『青い花』(岩波文庫)第一部第九章 p212 2004-06-15 |
ヴィトゲンシュタインのメモから
p66
p87 ヴィトゲンシュタイン/岡沢静也訳『版哲学的断章』(青土社/1988)より , 2004-06-16 |
ラジオと鏡(ジャン・コクトーの映画『オルフェ』) 2004-06-15 |
詩は非情なものと信じているので、「詩情」という言葉に出会うと困惑してしまう。「詩情溢れる」というような言い回しの中で捉えられている詩とはどのようなものなのか。 2004-06-14 |
2004-06-03 |
ベン・パターソンから聞いた(うろ覚えの)話。その昔、彼とエメット・ウィリアムズが演奏旅行中に泊まったホテルで、彼らは新婚夫婦と同じ朝食のテーブルについた。軽い会話が進む中で、夫婦は一緒に美術館へ行こうと二人を誘った。エメット・ウィリアムズはこう答えたという。"Madam, I am artist. I am not art lover." この話を聞いた次の日、ベンに質問してみた。"George Maciunas is artist or art lover?" オノ・ヨーコと一緒に来日したJohn Hendricksは、東京都現代美術館における彼の講演会では特に話しもせず、しかも唐突にいくつかのパフォーマンス作品を実演してみせたというウワサを聞いた(これはデマだったらしい)。その彼が去年か一昨年、ブラジルで組織したフルクサスの展覧会だったか、あるいはそのカタログのことだったのかも知れないが、内容は"FLUXUS"と"NOT FLUXUS"というような二つの部分に別れていて、ベンはその両方に分類されていたそうだ。そういえば彼はカエルが好きらしいのだが 2004-06-02 |
精進湖にてNam Jun Paik"One for Violin Solo"を演奏する(photo: ITO Shinobu) 2004-05-29 |
乱れずして荒れる(マース・カニングハムのダンスの題名) 2004-05-16 |
ワニス [varnish]:透明な被膜を形成する合成重合体又は化学的に変性させた天然重合体をもととしたもので水以外の媒体に分解、溶解したもの。ニス。仮漆。 (ヴェルニサージュ) 2004-05-04 |
遠方の鳥の声 すでに見知ったものの名前で呼ばれる雲の群れ オートマティズム 解釈の沈黙 Communication, baka-rashii. (J.C.) 交差点で行き交う無数の自転車のブレーキの音 餌を乞う猫に菓子の屑 晩年のウィリアム・バロウズが見た夢 等々 2004-05-04/05-16 |
瀧口修造のことが気にかかる。 瀧口の画帖の絵画にも書にも届かない、 2004-04-20 |
「…単調、いや無限の…」(ボルヘス) 「今日の空は古い」などと言い出す人はどこにもいない。 2004-04-16 |
ノーマン・オリバー・ブラウンが2002年10月2日に89歳で死んだことをいま知った。 痛ましいことにアルツハイマー症を患っていたという。 彼の言葉
そして
2004-04-14 |
テレビのコマーシャルから聞き取った一節を手がかりに
Joni Mitchell "Both side now"の冒頭部分 2004-03-26 |
例えばY=2X-1(ただしXは正の自然数)から得られる数列(1, 2, 4, 8, 16, 32, 64, 128, 256, ......)に含まれる数は、1を除外すればどれもがその前後の数の比例中項となる(1:2=2:4=4:8=8:16......)。 2004-03-10,11 |
2004-03-09 |
ジョルジュ・メリエスによる様々な映像のトリック 2004-03-09 |
2004-03-09 |
子供らを殺されてなお食べることをおもう神話の中の女は誰だったか。(ヴェイユが指摘する「人間の悲惨」) 2004-03-03 ニオベ Niobe 2007-01-02 |
火と塩は、どちらも浄めるものに数えられる。戦火に焼け落ちたペルセポリス、さらに塩を撒かれて不毛の地と成り果てたカルタゴ。 2004-02-18,29/03-02 |
「あらゆる動物が腹這いのまま生きる中で、人間は生まれてからすぐに天を仰ぐ」というようなことを書いたのはワルター・F・オットーだと思っていたのだが、以前にその和訳書からメモに書き移していた部分は以下のものだった。
ワルター・F・オットー/西沢竜生訳『ミューズ?舞踏と神話』(論創社)p17 「ストア派の哲学」については何も知らない。どこで読んだのか? 2004-02-06,29 |
ただそこにある石と砂と土を(素材ではなく)課題として何ができるだろうか。 2004-02-09,10,29 |
バルトークと同じルーマニア生まれの宗教学者ミルチャ・エリアーデ(1907〜86)は、論文をフランス語や英語のような国際語で書き、詩と小説を母国語で書いた。前者は学問対象の記述に徹しているが、後者はまぎれもなくひとつの成就を目指している。 2004-02-06 |
雲は養いの雨をもたらすと共に天体からの光を遮り我々の眼を塞ぐ。 2004-01-31 |
N・O・ブラウン/宮武昭・佐々木俊三訳『ラヴズ・ボディ』(みすず書房/1995)p62-63 2004-01-30 |
様々な装置を組み合わせて、極小のものを極限まで増幅したり、そこから思いもよらない結果 を導き出したいという僕の望みは、ボタンをひとつ押せば世界が破滅するとマスメディアから絶えず脅されて育ったことに、もしかすると結び付くのだろうか。 2004-01-30 |
アニー・ディラードに引用されたプリニウス
アニー・ディラード/金坂留美子他訳『ティンカークリークのほとり』 (めるくまーる/1991)p150-151 2004-01-29 |
第二部第四章第三節
第三部第一章第一節
第三部第一章第三節 (仏教伝導教会発行「和英対照仏教聖典」より抜粋/要約) 2004-01-28 |
だいぶ前から、この言葉の出所を探していたのだが、5年前に京都のホテルから盗み出した(「この聖典はここの備品です」と見返しに明記してある)財団法人仏教伝導教会発行「和英対照仏教聖典」に見つけた。
第三部第二章第四節 2003-6-10/2004-01-28 |
6つの点すべてを相互に結ぶ線の総数は(62-6)/2=15本であり、その線の組み合わせの総数は線がない状態を含めて215=32,768通りに及ぶ。さらに線の太さが10段階ある場合、組み合わせの総数はいくつになるか。 答え 2004-01-18,26,27 |
ファーブルは昆虫を機械に喩えたが、本能や生理と同様に、思想もまた人間を機械にする。機械とは固定された(無矛盾な)反応群の組織体である。思考それ自体は反機械的と思われる(非機械的なのではなく)。ヨゼフ・ボイスは流れる蜜に思考のかたちを見た。 ギリシャ語において「機械」と「計略」は共通の語根を持つ。--中断-- 2004-01-18 |
匙から柄を切り離す。それぞれを別の用途に役立てる。もう匙はない。 2004-01-08 |
「解放奴隷」というのは実に不思議な言葉だ。 2004-01-07 |
人間が観念の動物であるならば、まるで模型の部品のような人がいてもおかしくはない。 2004-01-06 |
未知の言語を未知のまま使う方法を探そう。 2004-01-03 |
雲のかたちから見知ったものを思い浮かべる。あるいは雲の中から見知ったかたちを探し出す。 2004-01-02 |
世の中には活け造りや踊り食いという贅沢なものもあるが、獣の肉を食べるには、まず追い求めて殺さなければならない。しかし肉屋で買うという手もあり、むしろこちらの方が一般的である。すでに肉屋を組み込んだ社会に生まれ育った自分にとって、食うために殺すというのは後から得た知識に過ぎず、生きたまま食べるのが単なる贅沢に過ぎないのであれば、殺すという行為は、ただ殺すために殺すということでしかなくなってしまう。自前の歯が悪くなるのも道理である。歯を欠いた獣は生き延びられないというが、歯の悪い我々を養う社会の歯はますます強く鋭くならざるを得ず、自らの顎を裂き貫いてしまうほどの脅威にまで達するのを避けられないのではないだろうか。 2003-12-28 |
「人には掴む手と離す手がある」とジャン・コクトーは指摘した。 「私は吸気(inspiration)ではなく呼気(perspiration)で書く」というのも彼の言葉だった。 2003-07-19/12-27 |
泳がないという理由で蝶を批難するのは愚かである。しかし今日も無数の暴君の手によって、やはり無数の蝶が水責めを受けている。どの蝶も無言のまま溺れていく。話す口がないからだ。ただ水面に燐粉が拡がっていくだけ。これがブラウン運動の発見を助ける。 ブラウン運動:気体または液体中に浮遊する微粒子が示す不規則な運動。微粒子に対して熱運動をする気体または液体の分子が不規則に衝突する結果起こる。 2003-12-22 |
果たして「旅」とは、パスポートや予防接種や切符や空港や風景写 真や派手な絵葉書や珍しい土産物……等々のことだろうか。写真家の森山大道は15年ほど前に、彼の住処の周辺をコンパクト・カメラで撮って雑誌に乗せた。題は「ほんの五分の旅」だったと思う。ニューヨークやカサブランカやパリやマラケシュの時には使わなかった「旅」という言葉を、彼は家から徒歩で五分近辺の光景群(あるいは写 真群)に対して使ってみせた。 以前にくらべると今の旅はあらゆる点で安上がりだ。 2003-12-21 |
ほとんど束に見えないほどゆるく束ねるには、決して解けないように(うまく)束ねるのとは逆向きの熟練を要する。 2003-12-20 |
申命記14章21節:子山羊をその母の乳で煮てはならない 信者はこれを文字どおりに守るという。 2003-12-18, 19 |
異なる映画の中で彷徨う盲のオイディプスを演じた二人の俳優、フランコ・チッティ(パゾリーニの『オイディプス王』、あるいは『アポロンの地獄』)とジャン・マレイ(ジャン・コクトーの『オルフェの遺言』)は、どちらも街のチンピラであったという過去を持つ。 2003-12-18 |
首尾よく年金生活者の頭蓋骨から抜け出した脳が、知られざる故郷を目指して旅するという物語を読んだ。大変気の毒なことに、彼は移動することで自らをすり減らし、手がかりを掴みかけたところで自分の目的を忘れてしまう。最後に「私はどこから来て、どこへ行くのか」と自問しつつ、世界の不可解な美を讃えながら、一匙のアイスクリームほどの大きさで死んでいく場面 は涙を誘う。 2003-12-03 |
宮沢賢治最後の手紙。かつての教え子柳原昌悦にあてたもの 2003-12-01 |
満月はみごとな円形の輪郭を夜空にあらわすが、揺れ動く水面に映るそのかたちは絶えず乱れ、歪んで定まらない。 星々(あなたの眠りを見張る千の目)の瞬きは揺らめく大気の屈折によってもたらされる。 2001-11-08/2003-11-28 |
きずのない鍋で湯を湧かすと、沸点を超えても温度が上昇するばかりで沸騰しない。 2003-11-28 |
頭痛を抑えるために薬を飲むと胃が荒れて痛むのならば、どちらの痛みを受け入れるべきか。 2003-11-28 |
ケージの「あるがままの音」は「しつけられた音」や「おしきせの音」や「隷従する音」などとの対比によって規定される。 2003-11-20, 28 |
エリックサティ/秋山邦晴・岩佐鉄男編訳『卵のように軽やかに』(筑摩叢書)収録『私は何者か』より抜粋 2003-11-11 |
ニシジマアツシから受け取る 1.
2.
2003-11-07 |
皆殺しの後に栄える中流の屍体社会。ありとあらゆる「門番の趣味」で飾り立てられた住処のために収入の半分が消える。 パゾリーニの映画『アッカットーネ』の世界はどこにもない、と断言できるだろうか。オルテガの『スポーツとしての政治の起源』によれば、--中断-- 2003-11-04, 07 |
引き裂かれたものだけがひとつになれる (誰の言葉だったか?) 2003-10-12 W.B.イェイツの"Crazy Jane" 2003-11-04 |
ある人が"RIO DE JANEIRO"は「一月の川」だと教えてくれた。 調べてみると確かにJANEIROはJANUARYであり、いずれもJANUSに由来する。 JANUS=ヤヌスは正反対の方向に向けられた二つの顔を持つ古代ローマの門と通路の神であり、出会いと別れ、始まりと終わりの神でもある。 一年の始まりにおいて、ヤヌスの顔は一方で未来を、他方で過去を凝視する。コクトーの「掴む手」と「離す手」を連想する。バックミンスター・フラーの解釈によれば、 ヤヌスの双頭はミノアの双斧Labrysと共に、果てなく回帰する世界の円還性をあらわすものであるという。 Labyrinthは「迷宮」と訳されるが、本来はLabrysの置かれる「双斧の宮殿」を意味した。ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』は川の流れで始まり、Theで断ち切れたように終わってまた始まりに戻る。即ち A way a lone a last a loved a long the / riverrun, past Eve and Adam's, from swerve of shore to bend to bay, ...... 2003-10-10 |
高橋悠治の「表しえぬ ものと、ひたすら見合ったままで」(1997)に使われたパゾリーニの言葉 2003-09-08 |
N・O・ブラウン/宮武昭・佐々木俊三訳『ラヴズ・ボディ』(みすず書房/1995)p195-196 2003-09-07 |
心霊写真の考察と応用 2003-08-20 |
poem、poema、poiesis、poiein, これらの語根はすべて同じであると説明されたが、疑わしい。 2003-08-09 |
問いと答えの例:
2003-06-14/07-19 |
身体は器官の寄せ集めではない。肉屋の店先に並んだものから一頭の生きた牛を組み立てることは不可能だ。器官は切り離すことで生じる。 「インターメディアとは、分かっていたことが再び分からなくなることだ」と小杉武久は言った。 2003-07-16, 19 |
ICCで『SOUNDING SPACE』展を見てからだいぶ経つ(2003年7月10日)。 『SOUNDING SPACE』という言葉にはマーシャル・マクルーハンが見続けた夢の響きがある。それは個の垣根を超えて鳴り響く共存と相互浸透の空間である。何故そのような展示構成にしなかったのか。--中断-- 2003-07-10,11 |
パゾリーニの映画『オイディプス王(邦題:アポロンの地獄)』では、スフィンクスが問う例の謎は削り落とされていた(一つの声を持ちながら、四足から二足を経て三足になるものは何か?)。泥の仮面を被った弱々しいスフィンクスは、いとも容易くオイディプスに殺されるが一言を遺す。それはたしか「人間の心の奥にこそ真の闇があるということがわからないのか?」というものだったように記憶している。映画の中のオイディプスはそれをまったく聞いていない。(“オイディプス”は“腫れた足”を意味する。) オイディプス役のフランコ・チッティは時折少年の顔を覗かせる労務者風の青年。ニネット・ダボリ(パゾリーニ映画の顔)はまだあどけないところを残す丸顔の少年で、どこか哀れな初々しさを放っている。パゾリーニ自身はテーバイ王となったオイディプスに直訴する市民の代表として出演する。だれもが小麦色の肌を陽に曝す中で、シルヴァーナ・マンガーノだけが女王蟻の腹のように白く、月のように蒼い。彼女は前テーバイ王ライオースの妻にしてオイディプスの実母イオカステーを演じた。 古代の都市テーバイをひらいたのはカドモスとされる。彼はヘルメスの龍を殺し、その歯を抜き取って他所の畑に撒くと兵士が生え出て互いに殺しあい、最後に残った五人がカドモスに仕えてテーバイをひらき、王となる。彼はまたギリシアにフェニキアのアルファベットをもたらしたと伝えられる。妻の名はハルモニア。この夫と妻は度重なる身内の不幸(龍の呪い)の果てに、つがいの蛇となって姿を消す。ヘルメスは往来の神である。 2003-07-08 |
思春期の始め、新宿駅山手線外回りのホームで、手を握ったり開いたりしていたら、突然、手と心の間に裂け目が生じた(あまり適切な表現ではないが他に思い付かない)。その時の感覚を何度も呼び醒しながら、およそ30年が過ぎた。 ある時期まで、僕はこれを「実存の感覚」と呼んでいた。その感覚に最も近いと思われる描写を、サルトルの小説『嘔吐』に見つけたからだ。もう手許にないので細かいことは忘れたが、主人公はドアノブや、マロニエの根や、甲殻類を見るたびに、その感覚に襲われる。今読み返せば、もう近いとは感じないかも知れない。「実存」という言葉さえ忘れていた。また何事にも「参加」した憶えがない。ただ浮かんで流されるに任せていた。 2003-07-01 |
向こうのものを掴むために伸ばした手で、自分のからだに爪を立て、掻きむしり、壊してしまうのはよくない。病気の草もそんなことはしない。伸ようとするだけだ。
2003-07-01 |
人間の悲惨を形成する、幸福と不幸、幸運と不運の網目。
2003-06-29 |
Deo Optimo Maximo
2003-06-29 |
グレゴリー・ベイトソンの喩えるところによれば、問いとは一本の鎖を引張ることであり、答えとはそこで壊れたひとつの環である。 卵子は問いであり、精子はその答えである。(しかしそれは唯一の答えではない。卵子は針のひと突きからも答えを受け取り、分裂を開始するという。) 古代中国の占術である卜(ぼく)は 甲骨を焼き、そこに走った偶然の亀裂から、うらないごとの吉凶を読む。 これに対して占星術は、ある運命の全貌を、諸天体の座相から算出し得る必然として告げる。易にはこの両極(すなわち陰陽に対するもうひとつの対極としての偶然と必然)の合一がある。 (ではマラルメの場合は?「骰子一擲いかで偶然を廃棄すべき」) 2003-04-03 |
時空連続体という概念が生まれるためには、まず時間と空間の概念が十分に切り離されていなければならなかった。 この意味ではデカルトも恩人に数えられて然るべきではないだろうか? 1999-12-31/2003-03-15/2003-6-11 |
空間とは問いであり、時間とは答えである。 (空間:時間=可能性:確定。雷は一瞬に唯一無二の軌跡を描く。) 2003-06-26 |
群れmureは村muraをつくる(村muraは斑muraか)。さらにその中でも「類をもって集まる」といったことが起こる。街角に不良少年がたむろする。反体制分子が地下に集う。隠語や合い言葉、変わった好みや目立たない徴で確認しあう、仲間、同志、義兄弟。その真向かいに「家族」がある。仲間達の一貫性と比べてみれば、家族はまるで偶然の吹きだまり。墜落するかも知れない飛行機に乗り合わせた人々にも似ている。「家族とは我慢して仕方なく付き合わねばならない人々のことです。」と言う人もいた。「人類はみな兄弟」と「人類はみな家族」では、同じようでも大きな違いがある。 ウィリアム・バロウズの映画式小説『ワイルド・ボーイズ』には、不思議な単性生殖で仲間を増やす不良少年団の様子が描写されている。レーモン・ルーセルの『アフリカの印象』では、ポニュケレ国王家の血統図が物語の舞台となる広場の要に据えられている。 (ノーマン・オリヴァー・ブラウンが書いた『ラヴズ・ボディ』によれば)オルテガ・イ・ガゼは群れ集う不良少年の一群に政治の本質を見ていた。ローマ建国の祖、ロムスとレムルスは荒野で狼に育てられる。--中断-- 2003-6-19, 20 |
海水と淡水の中間領域を汽水域と呼ぶことを知った。汽水域では比重の違いから淡水と海水が上下に別れて層状に分離する。その境界面では陽炎に似た光の不規則な屈折が見られるという人もいた。海水は淡水の下を楔状に潜行して時には数十kmも淡水域を遡り、徐々に淡水と混ざり合う。 汽水域は海水に含まれる多量の酸素と、淡水に含まれる窒素や燐の効果によって、富栄養化の最も盛んな領域となる。そこに交差的で複雑精妙かつ多様な水棲生物の生態系が形成される。また汽水域はあらゆる陸棲生物の「故郷」であるともいわれている。 汽水域の塩分濃度は河口付近から上流の河川湖に至るまでの範囲で大幅に変わる。その変化に順応して広範囲の水辺に繁る植物は葦であるという。人間を葦に喩えたパスカルは正しかった。上空から見ると、人はほぼすべての水域にそって定住しているということが一目でわかる。人は葦である。 チチカカ湖には人の棲む葦の浮島がある。 彼等は家と船を葦でつくり、葦の茎を食べ、湖面 を漂いながら生活する。この浮島は人工のもので、刈り取った葦を幾重にも重ね、作業にほぼ二ヶ月を費やせば新しい島が完成するとのこと。彼等はスペインによる侵略の手を逃れて、十六世紀以来このような生き方を続けているのだという。 マングローブmangroveは亜/熱帯の河口付近から海岸に生育する、およそ百種類の植物を指す総称であるという。アニー・ディラードは『逗留者』と題されたエッセイの冒頭に「生存が一種の芸術だとすれば、マングローブはまさに美しき生存の芸術家だといえる。」と書く。「こうした海岸線の木が、よくある偶然によって浮島になるのだ」。そして「地球は閉ざされた宇宙船――宇宙船地球号――というより、美しくも自由な、裸のままのマングローブの島に似ている。そこの住人たるわたしたちは、出発したときはちっぽけだったが、それ以来、よりどころとなるたくさんの腐葉土を、人間文化を、かき集めてきた。わたしたちはこの汚泥に根を張り、これを背負ってどこへともなく漂っていくのだ。」 おおまかに調べてみたところ、mangroveは残念なことにman-groveではなく、ポルトガル語のmangueと英語のgroveから成る合成語とされていた。mangueは果物のマンゴーmangoをも指すが、ここでのmangueはポルトガルに植民化された地域の先住民がマングローブを指して用いた言葉に由来するらしい。「おんぶ」が「ombro=肩」であり「じょうろ」が「jarro=水差し」であるように、また「soja」や「soy」がいずれも「醤油」に由来するように(soy bean=醤油豆)、mangueにも本来の意味があったに違いないのだが、その意味の根は途切れていて、今はこれ以上辿ることが出来ない。琉球ではヒルギと呼ばれ、漢字表記は「漂木」とされる。 2003-6-15 |
David Tudorの"Rain forest VI"は相違と相互浸透の交差領域をひらく。 2003-6-15 |
「前衛芸術と平和運動のあいだには何が横たわっているのだろう。」 瀧口修造がオノ・ヨーコについて書いた文章は、およそこのような言葉で始まるということをいま思い出した。 (二十年以上前に神田の古書店で立ち読みした「ぶっくれびゅー」誌のオノ・ヨーコ特集号) 平和を切望する。平和とは、誰もが平等に、より根源的な人間の悲惨と向き合うための窓ではないだろうか。 2003-6-15 |
草をむしっても、根こそぎにしなければまた生える。前とは違うところから、違うかたちで、何度でも執拗に生える。そのようにして続けること。 2003-6-14 |
発散する連続は予測できない/収束する連続は予測できる(GB) 2003-6-14 |
技量は質を保証しない。そればかりか、致命的な欠落の正当化に易々と利用される。 2003-6-14 |
飢えて、人口過剰の、病んだ、覇気満々たる、競争心旺盛な世界(GB) 2003-6-14 |
浅ましいことに比べれば、貧しいことはむしろ望ましい。 2003-6-14 |
ジョン・ケージの最後の視覚作品は、浅草海苔やタタミイワシにも似た"vegetable Paper"の連作だった。おそらく彼のアパートの台所に置かれていた、業務用とおぼしき立派なフード・プロセッサーから直接生まれたものに違いない。 ケージの第一著作集には、食べられる新聞のことが書いてあった。この架空の新聞は、たしか蛋白質の繊維で出来た紙に香辛料のインクで記事が刷られていて、教養と栄養が同時に摂取できる。ホームレスの人ならば、新聞を寝具と食料と娯楽の三通りに役立てることができる。 誰かに「今はどうやって食べてるの?」と聞かれたら、例えば「工場で働いている」とか「いろんなことをして何とか食ってる」などと答えれば、相手は十分に納得する。しかし様々な労働の中で、食べることに直接関係しているものはごく一部に過ぎない。我々は「働かなければ食べていけない」という信仰に支えられた社会のなかで生きている。「働かざる者食うべからず」という言葉もある。 R・バックミンスター・フラーはephemeralisationという概念を発明している。ephemeraは羽虫の「かげろう」を意味するが、俗語では特に量産品のおまけのような駄物一般を指す。フラーのephemeralisationは産業技術が貴重品を駄物化していく過程を指す言葉だ。例えば、時計はすでにephemeraliseされたもののひとつに数えられる。かつて時計は限られた技師の技によってのみ造り得る貴重品であったが、今では必要十分な精度のものが子供のおこづかいでも買えるし、わざわざ買おうとしなくても、すでにあらゆるものに組み込まれている。習慣的な行為が意識下に沈んでいくように、ある社会において有用な技術は普及することによって意識されなくなっていく。 (ephemeralisationはベルタランフィのcanalisationと相同関係にあるようだが、まだ確かめていない。) 食べることがephemeraliseされていくような社会、もしくは労働がephemeraliseされていくような社会を考えることができるだろうか。 2003-4-16/2003-6-12 |
子供の頃に好きだった遊びのひとつは、放送時終了後の深夜のテレビをこっそり点けて、ひたすら見つめ続けることだった。やがてモノクロームの砂嵐に流れの向きが見え始めると、後は意のままにその流れを操って、好きなかたちを自由に描くこともできる。ホワイト・ノイズと呼ばれる音でもそれに近いことができる。ただしこちらは決して意のままにはならない。意識を集中させ続けると、何の前触れもなく未知の音声が遠くから聞こえて来るのでとても恐かった。それでもラジオの中間ノイズなどに聞き耽るのを止めることができなかった。このような遊びの中で、次第に遠くへ流されていく自分を連れ戻すために、週刊マンガ雑誌や流行りのおもちゃは重要な役割を果たしていた。しかしある日それが効力を失い、どこまでも遠くに流され続けて今はここにいる。 2003-6-11 |
崇高と至上の通念に支えられて芸術はあった。前衛も結局は同じだ。 2003-5-26/2003-6-11 |
列車と映画は似ている。どちらにも時刻表がある。集まるのも別れるのもみんな一緒。四角く切り取られた景色が刻々と予定どおりに変わっていく。時には雨が降る。事故もある。ふいに止まる。燃え上がる。 2003-6-07 |
ベルイマンの最後のドラマ『ファニーとアレクサンデル』の中で、真夜中の子供部屋に入ってきた二人の父は、そこにあった質素な椅子を中国黄帝の玉 座に変える。 2003-6-07 |
音による作品をつくり始めてから十年になるが、発表らしきことは数えるほどしか行っていない。発表できるものがないわけではないし、その数は今も増え続けているのだが、誰を相手にどこでどう展開すればよいのか全くわからない。 作品の素材は主に使い慣れた(古い)音響機材と手作りの電子回路であり、最初の発見や着想を手がかりに、語順を並べ変えるように配線を繋ぎ変えてひとつのシステムを組み立て、組み直し、組み換えていく。うまくいけば思いもよらない何かがあらわれる。日々自由に使えるわずかな時間はそのために費やされる。 こうしてできあがったものを音楽と呼ぶべきかどうか、いつも迷う。仮に音楽と呼べるにしても、それはシステムが実際に音を響かせている間に起こることでしかないようだ。システムそのものは音楽ではなく、あくまでもシステムでしかない。そのシステムもまた、作動しない限りはシステムともいえない。システムのふるまいが音楽の可能性を随伴しているというべきだろうか。そしてシステムの示す多様性が極限に至ることを願ってあれこれといじりまわさずにはいられないのだが、それが裏目に出ることも多い。ごく僅かな違いによって、システムは単調な反復の谷間に易々と転落して逝ってしまう。 つまりは機材も回路もシステムの台座に過ぎず、そのシステムでさえ音楽が通り過ぎる広場のようなものに過ぎない。しかし音楽という言葉はあまりにも余計なものを引き連れている。ここでの音楽とは、折り重なる無数の条件の中でようやく立ち上がる虹のような、ひとつの成就を表す言葉である。この音楽は、果てしない可能性の海(ノイズ)の中で、いかなる意味も伴わず、ただ顕われる。 音楽を待ち望むだけでよいのかも知れないと思うことがある。あるいは耳が音楽に向かって開き始めるまでじっと待つ。何故それだけで満足しないのか? 2003-6-05 |
あえて靴を磨かないでおくこと。 2003-5-25 |
まだ小学校に上がる前だったと思うのだが、夕立ちの後で初めて見た大きな虹から、無数の鈴が一斉に鳴り響くような不思議な音がするのを確かに聞いた。その源を突き止めようとして歩き回っているうちに、やがて虹は消え、音も止んだ。
たぶん同じ頃、遊びに行った親戚の家で熱を出して寝ている時に、焼却炉の夢をみた。その焼却炉で菫の花を燃やすと、地響きのような恐ろしい音がしばらく続いてぴたりと止む。手には菫がたくさん握られていて、これをすべて燃やさなければならない。怯えながら作業を続けているうちに目がさめた。熱もさめて家に戻ったが、同じ夢をそれから何度も見た。僕はこれをピアノの夢と呼んでいたのだが、その理由は忘れてしまった。 2003-5-23 |
空気は目に見えないので、それが自分の動きによって絶えずかき乱されているということを意識するのは難しい。これは当たり前という言葉で切り捨てられてしまうことのひとつだ。
塩を撒いたところには草が生えない。力士は土俵に塩を撒くが、ローマ人もカルタゴの土地に塩を撒いたという。土俵は神聖な場所とされるが、カルタゴの場合はどうだったのか。 2003-5-23 |
医療が発達して病いの裾野がどこまでも拡がっていくと、最後はどこに辿り着くのか? 2003-5-21 |
モーターや蛍光灯の持続音が、聞く場所や姿勢によって変化することに気付いたのはいつ頃だったか。そんな音が鳴り響いている空間に出会うと、自分でも気付かぬうちに頭を傾けたり回したりして楽しんでいる。コップや何かの器があれば、それを耳に近付けたり離したりして、フィルタリングすることもできる。このパソコンの排気音はとても複雑だ。試しにコンタクト・ピックアップを取り付けてみると、その位置や付け方によって多彩な響きが顕われる。まるでラジオのようだ。 2003-5-20 |
中学二年の頃、ブラスバンド部の才媛であった小林さんから高橋悠治の第二著作集『音楽のおしえ』をもらった。よく理解できないところばかりなのが気にかかり、それからずっと読み続けて二十七年が過ぎ、当時の著者の年令を過ぎて、ようやくいくらかの共感とともに頁を追うことができるようになった。カバーは紛失し、表紙の角は擦り切れ、紙は黄変しているが、自分にとっては盟友のような本である。助けられたことも多かった。しかし実は少しだけウラミがある。一九二頁『ことばのカーニバルIX 帰郷の道 2003-5-19 |
「糸は結ぶものです、切れるから」という言葉があったように思い、 これは詩人の藤井貞和が三味線奏者の高田和子に贈ったものだというが、 糸は結ぶものです、切れるから 2003-5-14 |
1992年、おそらく初夏、深夜のファミリー・レストランでの蔡國強との会話の記憶。
シモーヌ・ヴェイユ/田辺保訳『超自然的認識』(勁草書房/1976)p249 1999-8-10/2003-03-15/2003-04-05,06 |
フォン・ベルタランフィ/長野 敬・太田邦昌訳『一般 システム理論』(みすず書房/1973)p222, 223 |
試訳) それぞれの宇宙は 生と呼ばれる経験は リチャード・バックミンスター・フラー 2003-04-05 |
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紙の上のしみが余白に取り囲まれてあるように、この紙もまた様々なものに取り囲まれたひとつのものとしてある。 常に一方と他方(あるいは彼岸と私岸か)があり、我々はその境界を見る。 しかし、そこに「境界というもの」があるのではない。 2003-04-03 |
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javascriptによる自動生成詩 2000-01-05/2003-03-30 |
言葉や身ぶり等々の連鎖の中で、ある時は意味が得られ、またある時は無意味が得られる。意味や無意味は複合的な状況から生まれ、その強度によっては状況の性質が変化する。 個々の語や身ぶり等は認知された事物や事態に対応すべく定義された記号に他ならず、それ自体は意味を持たない。例えば辞書は定義(あるいは説明)のみを示す。 辞書における語の定義においては、その語を除く複数の語群等によって、定義される語と等価の意味組織が示される。「語の(単一の)意味」の正体は、その語の周囲で稼動する意味組織である。意味組織を随伴しない語は意味不在であり、無意味なのではない。語は意味組織に向かって解消する。--中断-- 2003-03-28, 30 |
「眼を見ることはできるが、耳を聞くことはできない。」マルセル・デュシャン 世界という言葉は、ある全体において認識可能な有限の領域を指す。とすれば、「音」のことを「耳が切り取った世界」と呼んでも間違いではない。しかし「光」のことを「眼が切り取った世界」と呼ぶことはできない。眼が切り取るものはいつでも「あれ」や「これ」に尽きるからである。 「音の世界」に較べると、「光の世界」という言葉からは何か想像を絶するものという印象を受ける。我々は「光に照らし出された世界」や「光の及ばぬ世界」のことしか知らない。光源を見つめると眼が傷む。 人間の耳はおよそ20Hzから20kHzまでの波長帯域を感知する。眼は紫外線と赤外線に挟まれた波長帯域を完治する。このように書くと、音と光はいかにも類縁関係にあるかのようだが、それは誤りである。何故ならば、波というのは変化の一様態に他ならず、我々は変化を多様に解釈しているのであって、音や光という言葉は、そのような解釈大系における一種の術語に過ぎないからだ。--中断-- 1999-7-14/2003-03-15, 16, 26, 27, 28 |
油は霊である(ヴェイユ) 油の水に浮く様から導かれた象徴(あるいは灯油か?)。水は葡萄酒であり、葡萄酒は血である。
また水の中の魚はキリストを象徴する… しかし、例えば乳から分離した脂は元に戻らない。何かが生活から分離して芸術や文化や宗教や思想に転じると、それまでの統合性は失われてしまう。肉体から諸成分を抽出することは可能だが、それを混合しても出来上がるのは不潔な水に過ぎない。「覆水盆に帰らず」と昔の人は指摘する。 奇跡は取り返しがつかない。 1999-09-11_1999-09-13/2003-03-15, 16, 26 |
ホルヘ・ルイス・ボルヘス/鼓直訳『ボルヘス、文学を語る』
(岩波書店/2002)抜粋 |
N.O.ブラウン/秋山さとこ訳『エロスとタナトス』(竹内書店新社1970)p79-80 から引用部分を抜粋 |
試訳) 1053.827 ジョン・ケージの音楽は沈黙の間合いで占められている;増加し続ける彼の聴衆は即物的であるよりもむしろ形而上的な領域に同調しつつある全人類の姿を描き出す。増幅率を競い合う若い世代の「ロック」ミュージックはそのビートをいにしえの沈黙の間合いに転じ、聴衆はその心を形而上的な領域への執心で満たしつつある。 リチャード・バックミンスター・フラー "シナジェティクス 2"より variableは変数と訳されるが、tunableには適当な訳語がない。とりあえず「調域」としてみた。またultratunableとinfratunableの関係は、ultra-violet(紫外線)とinfra-red(赤外線)の関係に等しいものと考えられる。いずれも不可調域を指す言葉ではあるのだが、その不可調性における両極の差異が、ここでは特に重視されるべきものと思われる。 1999-07-30/2003-03-15 |
アニー・ディラードはその著作の中で、マリウス・フォン・ゼンデンの『空間と視覚』から、白内障手術によって視力を回復した先天性視覚障害者たちについての記録を引用している。
アニー・ディラード/金坂留美子他訳『ティンカークリークのほとり』 (めるくまーる/1991)p47-52 |
『日本大百科全書(ニッポニカ)』データベースより |
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『日本大百科全書(ニッポニカ)』データベースより |
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Hippocrates
Geoffrey Chaucer |